山岳部主将の豊嶋匡明をはじめリーダー陣は、決算合宿の場所を検討した結果、剱岳東面からの八ッ峰と源次郎尾根、そして西面からのチンネが候補に挙がった。その中で東面の 2 ルートは冬の気象条件の悪さとアプローチの距離から考えて難しいとなり、一番シンプルな厳冬期チンネ登攀が最有力となる。さらに決算合宿は単なる極地法登山で終わらせるのではなく、登攀力を磨くバリエーション・ルートの登攀を採り入れるべきだとなり、剱岳登頂とチンネ登攀に決まる。
そこで年度当初のプランは、上級生隊 4 名で小窓尾根から三ノ窓に定着し、チンネを登攀した後、剱岳本峰を経て早月尾根を下降、本隊は早月尾根から剱岳を往復し、下山する上級生隊をサポートするという意欲的な計画を立てた。ところが、コーチ会より冬山合宿における途中下山やエスケープ・ルートなどの課題が指摘され、最終的に全員で早月尾根から登り、 4 年生 2名でチンネを登攀する計画に縮小した。
夏場の 3 ヶ月間、主将の豊嶋がK 2 登山隊に参加するため、主務の早川敦がその間のカリキュラムや個人山行を設定した。夏山合宿後、関、森、田中の 3 名は、谷川岳・一ノ倉沢の中央稜で岩壁登攀の訓練を行い、豊嶋がK 2から帰国すると早川と 2 人でチンネを偵察した。併せて過去のチンネ登攀の資料を調べ、チンネの細かいルート図を作成し、イメージ・トレーニングを合宿直前まで行った。さらに三ッ峠でアイゼン・トレーニング、出発直前には登攀装備の最終チェックと、念には念を入れる準備で万全の態勢を整えた
登山概要
登山期間 | 1996(平成8)年12月15日~12月31日〈実動16日、停滞1日、計17日間〉 |
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メンバー | CL=豊嶋匡明( 4 年)、SL=早川 敦( 4 年)、朴元慶源( 4 年)、森 章一( 3 年)、加藤慶信( 3 年)、関 裕一( 3 年)、 金子知広( 2 年)、田中隆教( 2 年)、 1 年=天野和明、石田佳岳 以上10名 OB=山本 篤 |
行動概要
ここに記載する行動概要は、『山と溪谷』743号(1997年 6 月発行)に掲載された「大学山岳部の現在・長期雪山登山の記録より」から抜粋する(コースタイムは省略)——。厳冬期の剱岳・チンネ 7 時間超える激闘 豊嶋 匡明(平成 9 年卒)
12月15日 晴れ
剱センターから入山。今回の入山メンバーは4年が豊嶋、早川、朴の3人、3年が加藤、関、森の3人、それに2年生の金子、田中、1年生の天野、石田を加えた計10人。これまで積み上げてきたトレーニングの成果を、ここで大いに発揮したい。
この日から、2200メートル付近に設営したベースキャンプ(BC)まで、荷揚げ(BC上を含む)とルート工作の日々が始まった。晴天は15、16日のみで、17、18日は12月にもかかわらず雨に降られ、19日から21日は終日雪が降り、わかんを履いてラッセルしながらの荷揚げとなった。
12月21日 雪後吹雪
この日、山本OBが1550メートルまで入山(翌日、BC入り)。悪天候の中、他の隊員はBCに集結。ミーティング時のみんなの顔には気力がみなぎり、頼もしさが感じられた。
BC入り隊(早川・朴・関・金子・田中・天野・石田)、C1ルート工作隊(豊嶋・加藤・森)、下部サポート隊(朴・田中・山本OB)
12月22日 晴れ後曇り
2600メートル付近にC1を設営。そこから上部はラッセルが深くなり、雪の状態も悪化。2750メートル付近にフィックスを設置した頃、地吹雪となり急いでC1へ引き返した。翌日はひどい吹雪となり視界は10メートル程度。雷鳴も数回鳴る荒天で停滞した。
C1ボッカ隊(朴・加藤・森・金子・田中・天野・石田)、C1入り隊(豊嶋・早川・関)、BCの山本OB
12月24日 快晴
C1にいた豊嶋、早川、関が一昨日の最高点2750メートルを越え、12時30分、ついに剱岳のピークに立った。「厳冬期剱岳登頂」の目標を達成。その後、長次郎のコルへの下降点にフィックスし、14時50分C1へ戻った。続く2日間は悪天候でルート整備に終始した。
C1ボッカ隊(森・金子・天野・石田)、C1ダブルボッカ入り隊(朴・加藤・田中・山本OB)、長次郎のコルルート工作隊(豊嶋・早川・関)
12月25日 雪
C1ボッカ隊は天気待ちの後、出発。2400メートルで下部サポート隊と合流しC1へ向かう。C1で官物を整理後、BCへ帰幕。C1上部を偵察した2人は2750メートルに達し、フィックスや赤旗を補修しながらC1へ降りた。
C1ボッカ隊(森・金子・天野・石田)、C1上部偵察隊(早川・関)、C1下部サポート隊(朴・田中)、BCのTK(豊嶋・加藤・山本OB)
12月26日 雪後曇
BCメンバーが上部へ連絡に向かい、2450メートルのフィックス下でC1隊と合流後、BCへ下山。C1メンバーのうち2名が上部へ向かい視界の悪い中、2750メートルに到達してC1へ帰幕。一方、下部連絡2名はルート整備をしながら下降。BC連絡員と合流しC1へ戻る。
BC上部連絡隊(森・天野)、C1上部連絡隊(早川・加藤)、C1下部連絡隊(豊嶋・田中)、BCのTK(金子・石田)、C1のTK(朴・関・山本OB)
12月27日 快晴
いよいよチンネのアタックに向け本番開始。幸い稜線のラッセルはそれほど深くなく、フィックス再工作をしながら剱岳ピークを越えた。この日、OB1名を含む計7名が冬の剱岳に登頂した。さらに長次郎のコルまで進み仮ACを設営。
その後、早川と関の2名が池ノ谷乗越への下降点まで4ピッチをフィックスし仮ACに戻った。2年の田中と山本OBはC1に、朴はBCに戻り、夜はBCに3名、C1に4名、仮ACに4名の分散となった。
12月28日 吹雪
チンネを目前に、剱岳は狂ったような吹雪に見舞われた。BC隊とC1隊は行動を開始したものの、積雪の状態が悪くすぐに行動を中止し停滞することとなった。仮ACの4名は協議のうえ行動を決定。池ノ谷乗越のACへの移動中に天候が暴風雨へと変わり、凄まじい吹き上げの中で視界は5メートル程度。AC設営を余儀なくされ、ひとまずテント内に退避した。
その後、天気待ちをしたのち、強風の中豊嶋と加藤がチンネの偵察に向かう。八ッ峰側の壁伝いに三ノ窓へ下り、デポを回収。腰までのラッセルと発生する雪崩に注意を払いながら慎重に進み、デポ回収とACへの荷揚げを完了した。準備は整い、あとはチンネを登るだけとなった。
BC上部連絡隊(朴・天野・石田)、C1下部連絡隊(森・田中・金子・山本OB)、AC入り隊(豊嶋・早川・加藤・関)、AC入り・上部ルート偵察隊(豊嶋・加藤)、AC入り・ACダブルボッカ隊(早川・関)
12月29日 快晴
天気図の予想通り、天候が回復。午前5時、ACを出発。加藤と関が先行し、月明かりに浮かぶ雪の中を進む。池ノ谷を下りながら雪は徐々に固まり、快調に三ノ窓に到達。ジャンダルムを伝いながら雪が深くなる箇所もあったが、やり過ごすと氷雪壁に変わった。
ここでトップを交代し、北条・新村ルートの取り付きで登攀準備を整える。6時20分、サポート隊にヨーデルで合図を送り、登攀開始。
〈チンネ北条・新村ルート~aバンド~bクラック登攀記録〉
1ピッチ目(トップ:豊嶋)
傾斜の緩い氷雪壁をダブルアックスで右上気味に進む。雪のついたチムニーを避けて右のカンテを登り、氷雪壁を右にトラバースしてチムニー下でビレイ。
2ピッチ目(トップ:早川)
氷雪で埋まったチムニーをダブルアックスで直上。人工で凹角下に入り、凹角をフリーと人工を交えながら越えたところでピッチを切る。
3ピッチ目(トップ:豊嶋)
垂壁下のカンテラインを直上。ピトンラダーのハングを人工で越えた後、左にトラバースしてツルツルの凹角を直上。チョックストーン下で右のカンテラインに移動し、中央バンド下でビレイ。このピッチはユマーリングでフォロー。
4ピッチ目(トップ:早川)
中央バンドの傾斜の緩い雪壁を15メートル直上。
5ピッチ目(トップ:豊嶋)
中央バンドからピナクル左の氷雪壁状になった凹角をダブルアックスで直上。aバンド手前でビレイ。
6ピッチ目(トップ:早川)
一段上のバンドに上り、雪で覆われたバンドをダブルアックスで右上する。
7ピッチ目(トップ:豊嶋)
人工でクラックに取り付く。非常に難しく緊張を強いられるが、人工、フリー、ダブルアックスを駆使して直上。さらに上のルンゼをダブルアックスで右上してピッチを切る。この時、チンネの頭にサポート隊の加藤と関の姿を確認し、ヨーデルを交わす。
8ピッチ目(トップ:早川)
最終ピッチ。出だしを右にトラバースし、傾斜が緩む雪だらけのルンゼをダブルアックスで直上。最後はフリーでチンネの頭に到達。13時10分、登攀終了。
チンネの上でサポート隊と合流。ルート中は陽が全く当たらなかったが、頂上で太陽を浴び、八ッ峰を眺めながら達成感を噛み締めた。13時45分、サポート隊とともにACへ帰幕。
12月30日 晴れ
池ノ谷乗越のACを撤収。フィックスを回収しながら8時10分に剱岳のピークを越えた。目標達成後のピークは名残惜しくも嬉しさで満ちていた。その後、順調に下り、11時15分にBCへ到着。この夜、9日ぶりに全員がBCに集結。全員が一回り逞しくなった姿に感動した。
12月31日 晴れ
OBを含めたメンバー11人が全員無事に16日ぶりに馬場島へ下山。
総括
この冬山決算合宿で厳冬期の剱岳に9名が登頂し、チンネ登攀の目標を達成できたのは、メンバー全員が一丸となり全力で挑んだ成果である。今後も得た経験をもとに、トレーニングを怠らず真摯な態度で次の山に向かってゆきたい。
あとがき
この冬山合宿が実施された当時、翌春のマナスル登山隊に選抜された部員が 3 名(豊嶋、関、加藤)も含まれ、通常合宿とは違う高揚感と緊張感が漂う冬山合宿となった。
結果、1996(平成 8 )年度の冬山決算合宿は天候に恵まれたこともあり、初期の目的を達成し終える。豊嶋主将は「年度方針の実行具体案であるチンネ登攀が成功したのは、非常に意義のあることである。バリエーション・ルートとしてのチンネ登攀が個人の力を必要とされるならば、そこに達するまでは各個人の力が融合したものである。個人の力も必要である。しかし、決算合宿では部員一人一人が緊張し、全員の力を集結して池ノ谷乗越まで荷揚げをし、サポートできたことの方がむしろ称賛されるべきであり、重要なことである。その点からも今年度は全体の底上げのできた年であった」と総括、結果のみでなく最終目標までのプロセスにおける成果を高く評価した。この意義深いチンネ登攀の成功は、単にこの 1 年だけの成果ではなかった。
豊嶋たちが入部する以前、MACは部員の減少で危機的状況に立たされていた。そのドン底から這い上がるため、合宿や山行の充実を図りながら、一歩一歩高みを目指し積み重ねてきた努力の集大成であった。
ところで、ここに掲載した平成 8 年度冬山合宿の記録は、山岳雑誌の『山と溪谷』が衰退久しい大学山岳部の長期雪山登山に焦点を当て、明治大学山岳部の剱岳と千葉大学山岳部の知床登山を掲載した。いみじくも1957(昭和 32)年春、白馬鑓ヶ岳で二重遭難に遭った両校山岳部が、39年後に同じ山岳雑誌の特集で、肩を並べて積雪期の記録が掲載されたことを想うと、不思議な巡り合わせを感じる。