特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

南アルプス縦走と北岳バットレス登攀(1987) – 昭和62年度夏山合宿

 夏山合宿は創部以来、年間合宿の大きな柱であり、戦後になると積雪期の冬山、春山に次ぐ重要な合宿と位置づけられた。夏山合宿は年度目標の積雪期登山に備え、基礎体力の養成をメインに、幕営生活技術の習得、チームワークの強化などを図る目的で実施されている。

 こうした夏山合宿の山域を戦後で見ると、圧倒的に南アルプスが多い。歩荷力やスタミナ強化を図る上で、山容が大きく稜線が長い南アルプスが最適として選ばれた。また、夏山合宿の形態を見ると、最もオーソドックスな「全山縦走形式」が主流である。部員が多くなる昭和30・40年代になると、

 「縦走+定着」や「縦走+分散+縦走」などのオプションが導入される。その中で「縦走+定着」方式は、“前半縦走・後半定着”、“前半定着・後半縦走”、“縦走中間定着”  と、それぞれの年度計画の目標に沿ってアレンジされ、夏山合宿の計画が立てられた。いずれにしても「縦走」は体力強化を目的に負荷での歩行と、幕営(テント)生活に重点が置かれ、「定着」は技術力向上を目的に登攀訓練に充てられた。

 一方、夏山合宿の登山日数を調べると、最も短い期間で 9 日間、最も長い期間で24日間、平均すると 2 週間から 3 週間以内が最も多い。炎天下での夏山合宿は、重いザックを背負いながらの縦走で、新人にとってはまさに  “地獄の合宿”  となる。この夏山合宿でシゴかれた新人は、合宿が終わると半数ほどが脱落してしまう。幕営用具一式から長期の食糧を背負って登る夏山合宿の厳しさ、苦しさは、部員はじめOB一人一人の脳裡に深く焼き付けられている。

 昭和の時代が押し迫った1987(昭和62)年度は、 4 年・ 3 年生部員がいない変則体制で、 2 年生の佐野哲也が主将となり牽引した。彼はチームの柱となる 2 年部員を強化し、足下の基礎固めを優先する方向で臨んだ。新体制での夏山合宿は、最上級生の 2 年部員 6 名が新人を引率することから、コーチおよび若手OB 7 名が日替わりで合宿に同行、経験の少ない 2 年部員をサポートした。

目次

登山概要

登山期間1987(昭和62)年8月2日~25日〈実動22日、休養2日、計24日間〉
メンバーCL=佐野哲也( 2 年)、大川邦治( 2 年)、原田暁之( 2 年)、廣瀬学( 2 年)、佐藤伸( 2 年)、佐藤千春( 2 年・後続隊として入山)  新人=徳丸威一郎、藤本輝、村野涼太
以上 9 名

参加OB=田中淳一、三谷統一郎、金子文雄、高野剛、松村定樹、松尾英之、山本篤

行動概要

 24日間に及ぶ最長の夏山合宿を報告書から抜粋する――。コースタイムは省略。

8月2日 晴時々曇
 朝、伊那北の駅でデポのために先行していた大川と合流する。タクシーで戸台まで行き、そこからゆっくりしたペースで河原を進み、午前中に赤河原に着く。

8月3日 晴
 快適な樹林の中を順調に進む。北沢峠に着いてからは設営の練習を行なう。

8月4日 晴
 良いペースで登り始める。双児山から駒津峰はガレている。六方石から先は尾根の右を巻く。甲斐駒ヶ岳の頂上には人がたくさんいた。摩利支天には一度トラバース道へ下ってから行く。帰りは来た道を戻る。

8月5日 雨
 小雨の中、出発する。尾根沿いから藪沢小屋に抜けるルートを行く。ルートは良いが余りペースは上がらない。稜線に出ると風雨が強く寒い。仙丈小屋に着きテント設営に苦戦した。

8月6日 晴
 晴天の中、出発する。稜線に出ると伊那側からの風が強く冷たい。仙丈、大仙丈の付近は三峰川側に切れており慎重に下る。樹林帯に入ってからは倒木や段差が多く、ペースが落ちる。高望池は干し上がっており湿地ですらない。水場は三峰川方向へ50メートル程下るとある。幕場の広さはテント3~4張程度である。

8月7日 晴
 良いペースで進むが、露岩や木の根によるスリップに気を遣った。倒木はほとんど気にならない。両俣に着いてから大川と佐藤伸の2人が上部偵察に行く。

〈偵察隊=大川・佐藤伸〉
徒渉を繰り返しながら上部へ向かう。木の橋は不安定で、濡れた岩も滑りやすい。大滝の所から樹林に入り、2250メートル付近の山腹のトラバース箇所にフィックス44メートルを工作する。帰りはルートを確認しながらゆっくり下った。

8月8日 曇後にわか雨
 小屋に連絡文を頼み出発する。偵察の甲斐あって順調に進む。岩が外傾した所ではダブルボッカをする。フィックス箇所を過ぎてからは危険な所もなく、長い急登が続いた。午前8時半頃、高野OBが追いつく。中白根沢の頭付近からガスが濃くなり、雨も強くなったが、順調に進み午前中に肩ノ小屋に着く。

8月9日 晴
 小太郎尾根経由で白根御池へ向かう。食当の遅れで出発が50分遅くなる。白根御池に着いてから午後、テント設営の練習を行なう。

8月10日 晴
 二俣経由で広河原まで下る。広河原で東京本部に連絡を入れた。デポの再梱包をして白根御池へと戻る。夕方、浩宮様の取材に来た大西OBが幕場を訪れる。

8月11日 快晴
 食当が遅れて出発も遅れる。大樺沢付近で北岳バットレスを見学する。二俣より高野OBは下山、本隊は白根御池に戻る。

8月12日 晴天
 休養。朝5時半に起床し、個人装備の点検、洗濯、干し物などをして過ごす。夕方に田中、三谷両OBが、夜中に金子OBが入山する。

8月13日 晴後曇時々雨
 分散岩登り及び山行。

〈1尾根パーティ〉(大川、廣瀬、松尾OB)
 二俣で待機し松尾OBと合流後、出発する。ルートを誤りヒドン・ガリーに入る。藪をトラバースしてaガリーを経てルンゼに出た。岩は脆く、落石が多い。ピッチの区切りが合わず、リッジの右の側壁を登る。3ピッチで終了点に出る。

〈4尾根パーティ〉(原田、田中OB)
 バットレス沢の右岸をたどってbガリー大滝の下部に出る。bガリー大滝は落石が多いので注意した。緩傾斜帯を左にトラバースして、cガリーに入ってから取付きを捜すのに苦労し、1ピッチ下から取り付く。ここから先は順調に登り、マッチ箱でシュバルツ・カンテ隊と合流する。そこから2ピッチでハイマツのテラスに着き、そこからコンティニュアス歩行で北岳頂上まで行った。

〈シュバルツ・カンテパーティ〉(佐藤伸、佐野、金子OB)
 d沢より踏み跡を辿りdガリー大滝に取り付く。大滝を2ピッチで抜けた後、コンティニュアス歩行とワンアットを交えて取り付きに出る。カンテ側を登り、5ピッチで終了点。

〈小太郎山パーティ〉(佐藤千、徳丸、藤本、村野、三谷OB、松村OB)
 二俣で入山隊の到着を待つ。入山隊の学生の疲労がひどく幕場に着いた後、1年生と松村OBが先行し小太郎山へ向かう。稜線に出てからハイマツの多い中、頂上まで行く。帰路、分岐付近で後発隊と合流。先行隊はそのまま帰幕、後発隊は岩登りの上級生と共に戻る。

8月14日 曇
分散岩登り。
 1尾根パーティに佐野・金子OB、4尾根パーティに大川・松村OB、佐藤伸・加藤さん(高松労山)、シュバルツ・カンテパーティに原田・三谷OB、廣瀬・田中OB、ボーコン沢の頭パーティに佐藤千、徳丸、藤本、村野、松尾OBが、それぞれ挑んだ。

8月15日 晴時々曇一時雨
分散岩登り。

 1尾根パーティに佐藤伸・山本篤OB、原田・加藤さん、4尾根パーティに佐野・松尾OB、廣瀬・三谷OB、シュバルツ・カンテパーティに大川・松村OBが挑み、新人パーティは北岳に登った。合流後、全員で小太郎尾根を経由し白根御池に戻った。

8月16日 晴
〈上級生隊〉(佐野、大川、佐藤伸、原田、廣瀬、山本篤OB)
 二俣まで1年生と共に行く。二俣から各自フリーで進む。北岳山荘のトラバースの岩稜は意外に歩きにくかった。間ノ岳付近からガスが出始め、風が冷たい。懸念されたルート・ファインディングはペンキの矢印のため、さして問題にはならなかった。農鳥小屋には廣瀬、佐野、原田、大川、佐藤伸の順に着く。

〈下山隊〉(佐藤千、徳丸、藤本、村野、田中OB、三谷OB、金子OB、松村OB)
 1年生3名と2年生の佐藤はOBの指示のもと、広河原に下山する。

8月17日 曇
 この日から上級生5名による縦走となる。ガスの中を出発する。西農鳥岳から農鳥岳までのルートは岩場やガレが多い。広河内岳あたりから道が悪くなり、ハイマツやガレが多くなる。不明瞭なトレースに沿って下り、沢に降りる。倒木や藪が多く歩きづらい上に、徒渉も多く苦戦した。またルート・ファインディングも難しい。やがて沢の幅が広がりはじめ、池の沢小屋に着く。

8月18日 曇後雨
 雪投沢を登る。徒渉で足がズブ濡れになる。倒木や濡れた岩は滑りやすい。稜線に出る際に1名がルート・ミスで遅れるが、塩見岳頂上で合流。天狗岩付近の岩場は慎重に下る。その後、三伏小屋に佐野、大川、廣瀬、原田、佐藤伸の順に着く。

8月19日 晴後曇後雨
 出発からフリーで歩き始める。山本篤OBは塩川に下山する。ルートは明瞭で順調に進む。高山裏で一度集合し、再びフリーで荒川小屋へ向かう。荒川の登りは長く、精神的に疲れる。荒川前岳頂上付近は幾つかトレースが派生していた。そこからガレの道を下って荒川小屋に佐野、大川、佐藤伸、廣瀬、原田の順で到着する。

8月20日 晴後曇
 爽やかな天気の中を出発。赤石岳の登りで1名が腰痛を訴えたため、隊を2つに分ける。百間平の手前に右側が切れた所があった。百間洞露営地に幕営する。

8月21日 曇後霧雨後晴
 曇天の中、出発する。稜線に出ると雨交じりの風が強い。兎岳の下りの露岩は慎重に下る。聖岳の登りの赤い岩の所は、道が不明瞭でわかりにくかった。下りは1箇所、右側に切れている所があった。聖平への到着は廣瀬、佐藤伸、原田、佐野、大川の順となる。

8月22日 雨後曇
休養。食糧の整理、器具の点検などを行なう。

8月23日 雨強し、後、雷雨後曇
 出発して間もなく雨が降り始めた。稜線に出ると風雨ともに激しくなり、やむなく茶臼小屋に幕営する。設営後、雷雨となる。

8月24日 曇後晴
 起床を1時間早める。ヘッドランプをつけて出発する。茶臼岳は巻道を通るが、岩が多く歩きにくい。光岳までルートはしっかりしていた。易老岳付近から1名が胸の痛みを訴えたため、他の者が光岳の頂上を往復している間、休ませる。光岳小屋の主人から信濃俣付近の道は荒れていると聞き、柴沢へ降りる道を選ぶ。百俣沢の頭から右に道を取り、長い急な道を下る。ザレのジグザグの急降を終え、吊橋を渡ると林道に出た。ここから寸又峡まで37キロの林道をフリーで歩く。小根沢付近の営林署の建物のそばにテントを張る。この日は佐藤伸、佐野、大川、廣瀬、原田の順で到着した。

8月25日
 翌日下山。

あとがき

 白根御池定着で各隊が目的を達成し、新人隊は15日間の実動を終え広河原へと下山した。一方の上級生隊は縦走に移り、前・後半の縦走を含めると延べ24日間という長丁場となり、基礎体力の養成や登攀技術の訓練等で収穫の大きい夏合宿となった。佐野リーダーは後半戦が上級生のみになったことから体力強化を図る目的で、当日の幕営地までフリーで行く競走を実施、スピードを競わせた。この夏山合宿は 1 年生が「縦走+定着形式」、 2 年部員は “縦走+定着+縦走” という形式で実施された。

 こうした長期の合宿になると、最も苦労するのは食糧係である。今回の夏山合宿では、実動と予備を合わせ28日間、延べ人数が200人分近い大規模な食糧計画となる。カロリー計算も激しい運動に必要な 1 日最低3500㎉を確保するメニュー作りとなった。また、食糧係が真夏の長期合宿で一番頭を痛めるのが、新鮮な肉類と野菜の確保である。補給する肉、野菜は後発隊の佐藤千春に持参してもらい、なんとか支えることができた。

 1 年・ 2 年部員のみで始まった87(昭和62)年度は、山岳部の先行きを占う意味で極めて重要な 1 年となった。ところが、夏山合宿に参加した 1 年部員の 3 名は、合宿後に 1 人が辞め、 2 人は残り 2 年部員となるが、この 2 人も 2 年目の冬山合宿を前に退部、結果、87年入部者はゼロとなり、 1 学年が断絶してしまう。

 そのため  3  年間主将を務めた佐野哲也の後は、88(昭和63)年に入部した冨田大が 2 年間、主将を務めることになる。こうした学年断絶や変則体制はその後も続き、主将が複数年をカバーしなければならない時代が、しばらく続くことになる。

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