1976年度の主将になった 1 人 4 年生の松田研一は、本学100周年記念事業のエベレスト遠征が控える中、高揚感をみなぎらせ部活動を開始した。新人合宿を終了すると、極地法による決算合宿「北仙人尾根より剱岳」の計画を推し進める。 5 月に偵察を兼ねた個人山行、10月には偵察山行と周到な準備を重ね、資料作成にも取り掛かった。
11月の冬富士合宿を終えると、 2 年部員 3 名が揃って退部してしまう。リーダー陣は合宿地を変更するか、規模を縮小するか検討したが、決算合宿は年度の総力を挙げる重要合宿であると確認し合う。部員数が減ったことから極地法を断念、 4・ 3 年部員のみの上級生パーティが北仙人尾根から剱岳を経て早月尾根を下る縦走とし、 1 年部員パーティは赤谷尾根から赤谷山の登頂を目指し、その後、上級生パーティは 1 年部員パーティに合流して合宿を終える計画に変更した。
ところが、先発して入山した上級生隊に思いも寄らない悪天候が襲い掛かり、予備日を大幅に超える停滞を強いられ、OB救援隊が出動する事態を招いてしまった。
登山概要
登山期間 | 《上級生縦走隊》 1976(昭和51)年12月16日~1977(昭和52)年1月7日〈実動12日 停滞11日 計23日間〉 《赤谷尾根隊》 1976(昭和51)年12月25日~1977(昭和52)年1月7日〈実動12日、停滞2日 計14日間〉 |
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メンバー | 《上級生縦走隊》 CL=松田研一( 4 年)、SL=五十嵐武美( 3年)、大西規雄( 3 年)、三谷統一郎( 3 年) 以上 4 名 《赤谷尾根隊》 CL=伊藤彰則( 3 年)、 1 年=中西紀夫、佐久間一嘉、油井正光、小島正昭、大野壮広、渋谷順造、松本雅文以上 8 名 合計12名 OB=河野照行、和田耕一、宮川良雄 |
行動概要
ここで前半は上級生縦走隊をメインに、後半は赤谷尾根隊も併せた行動概要を再録する(1980年 2 月発行『炉辺』第 8 号より抜粋)——。
12月16日 晴後曇
宇奈月にて関西電力黒部川事務所に挨拶し、合宿所に荷の残置をお願いする。駐車場横から軌道に下り、単調な軌道上を時々トンネルを通りながら歩き続け、小黒部谷出合に着く。合宿所へ行き必要なデポを回収し、残りを5月まで置いてもらうようお願いする。今夜はトンネル内に泊まる。
〈コースタイム(以下CT)〉宇奈月(8:40)~笹平(10:20)~猫又(11:40~12:10)~小黒部谷出合(14:10)
12月17日 雨後曇
朝から雨で停滞。午後から雨が止んだので松田、三谷でルート偵察。積雪70センチぐらい。欅平から水平歩道に出る所の鉄塔にて引き返す。
〈CT〉小黒部谷出合(13:30)~P871m(15:05)~小黒部谷出合(16:35)
12月18日 快晴
昨日トレースをつけた所までは順調に行く。そこからトップが空身でラッセルをしていく方法で前進。1122mピーク付近は急なナイフ・リッジで小さな突起の登り下りを繰り返す。途中、一枚岩や大木があり巻いて登る。
〈CT〉小黒部谷出合(6:30)~P871m(8:20~8:45)~P1122m(11:10~11:20)~坊主山直下(15:05)
12月19日 吹雪 停滞
12月20日 雪
トップは空身でラッセル。坊主山頂上は雪原状になっている。志合谷コルへの下りは黒部川側に雪庇が出ているため、小黒部谷側を進む。志合谷コルから上は、ところどころ雪壁になっている。1765mピーク下の平坦地にテントを張る。
〈CT〉坊主山直下(7:55)~坊主山(8:40)~志合谷コル(9:40)~P1765m直下(10:05)
12月21日 晴後雪
テント地より膝下のラッセルをしながら進む。ナイフ・リッジ上の小さなコブ5メートル程の垂直な登りにフィックスする。五十嵐、大西が先行し、松田、三谷がフィックスを回収する。
ラッセルして先行していた五十嵐が、黒部川側に張り出した雪庇とともに志合谷上部へ転落。大西、三谷、松田の順で下降、途中の岩場をアプザイレンで下る。さらに下ると、下から五十嵐が登ってくるのが見えた。
合流後、沢を離れ尾根状のところで休む。五十嵐は額と左目を打撲しているが元気だった。無くしたものは目出帽だけとのこと。小さな尾根を腰までのラッセルで進む。稜線直下100mぐらいの急斜面は、雪が不安定のためザイルをフィックスして一人ひとり登る。1765mの平坦な頂上で行動を打ち切りテントを設営する。
〈CT〉P1765m下(6:35)~P1765m(6:50)~五十嵐転落(7:35)~五十嵐と合流(8:05)~P1765m(9:20)
12月22日,23日 雪 停滞
12月24日 雪 晴後曇時々地吹雪
大西、三谷そして松田、五十嵐のザイル・パーティーでアイゼンを着け出発。P1852m付近はナイフ・リッジで両側はスッパリ切れ落ちている。何回かフィックスして通過する。折尾谷乗越から岩峰を右に巻き、北仙人山より派生している尾根に取付く。急斜面は木を頼りにフィックスしながら登る。上部は岩稜に灌木が生えており、それを縫いながら登る。小さなピークを越え、コルにテントを張る。
〈CT〉P1765m(6:40)~P1852m(9:20)~折尾谷乗越(10:35~10:50)~北仙人山の手前2110m地点(16:35)
12月25日 雪 停滞
12月26日 雪後吹雪
視界が200から300メートルあり、アイゼンとワカンの併用で出発する。ラッセルは膝下ぐらいだ。雪稜と雪壁の登り下りを繰り返して北仙人山に着き小休止。そこから先は急な下りとなり、数回ザイルをフィックスして通過。2160mピークと2140mピークのコルに下り立つころ、目を開けていられない吹雪となり行動を中止する。
〈CT〉2110m地点(7:25)~北仙人山(8:45~8:55)~P2160mとP2140mのコル(10:30)
12月27日,28日 吹雪 停滞
12月29日 吹雪後晴
午前中、風雪のため天気待ち。昼ごろ、天候回復の兆しが見え行動開始。五十嵐、三谷で2140mピークの下りに70メートルほどザイルをフィックスする。松田、大西はテントを撤収。ザイルは空身で登り返し回収する。次の雪のナイフ・リッジに40メートルをフィックスして通過。その後は2つのザイル・パーティーで雪稜を交代しながらラッセルして進む。北仙人山の北方ピークにテントを設営する。
〈CT〉P2160mとP2140mのコル(13:00)~P2110m(13:40)~2051m地点(14:20)~仙人山(16:35)
12月30日 曇後吹雪
起床時に晴れていた空も、出発する頃には雲が一面に拡がっていた。池ノ平小屋は殆んど埋まっていた。小屋から先は尾根上にルートをとるが、途中より斜面になる。腰までのラッセルをしながら、ひたすら直上する。
やがて雪が降り出し、風も出てくる。稜線と空の境がハッキリせず、いつ雪崩が起きるかという恐怖心に悩まされながら、黙々とラッセルを続け、やっとのことで池ノ平山の肩に着きホッとする。池ノ平山からはアイゼンだけで下る。岩峰と雪稜の下りでフィックスをして通過。小窓への長く急な下りは、灌木を支点にフィックスを繰り返して下る。小窓の池ノ平山寄りの平坦地にテントを張る。
〈CT〉仙人山(6:40)~池ノ平山(10:00~10:50)~小窓(14:20)
12月31日・1月1日・2日・3日 吹雪 停滞
1月4日 吹雪後曇
〈上級生隊〉
吹雪後曇 停滞。午後から天候も少し回復してくる。
〈赤谷尾根隊〉
曇後時々晴 隊を2つに分ける。サポート隊=河野OB、和田OB、伊藤、中西、松本、油井、馬場島留守隊=L佐久間、大野、小島、渋谷。新雪が50センチほど積もっているが、それほど潜らない。途中、下山してきた他のパーティーに会い楽になる。
〈CT〉馬場島(7:30)~1600m付近(15:00)
1月5日 雪後吹雪
〈上級生隊〉
雪後吹雪 クラストしたY字状ルンゼを登り、左の尾根に出る。途中からラッセルが深くなりワカンを付ける。大阪大学の4人パーティーと一緒になる。小窓尾根に出てから稜線を忠実に行く。小窓王の肩からの下りは140メートルほどザイルをフィックスして通過する。池ノ谷ガリーはクラストして登りやすい。長次郎の頭からの下りは長次郎谷側を巻く。剱岳頂上に着き、源治郎尾根側に雪洞を掘る。
〈CT〉小窓(6:55)~P2630m(8:50~9:20)~小窓王下(11:00~11:35)~池ノ谷乗越(12:10)~長次郎ノ頭(13:15)~剱岳(14:35)
〈赤谷尾根隊〉
雪後吹雪 朝からの雪でトレースは埋まっているが、下山パーティーがあり快調に登る。昼頃、伝蔵小屋に着いて挨拶し、小屋の裏にテントを張る。
〈CT〉1600m付近(7:00)~伝蔵小屋(12:25)
1月6日 吹雪後曇
〈上級生隊〉
最後の食糧ラーメン1袋を4人で分け、下山を開始する。シシ頭までは気を抜けない。視界が悪く、そこから東大谷側に下りそうになるが、引き返して雪稜を下る。2800m付近に来ると視界も良くなり、下にサポート隊が見え一同ホッとする。2700m付近でサポート隊の河野OB、和田OB、伊藤と合流し、昼食を腹一杯食べさせてもらう。2400m付近でザイルを解き、伝蔵小屋に着く。
〈CT〉剱岳頂上(7:10)~早月尾根2700m地点(10:35~11:10)~伝蔵小屋(13:15)
〈赤谷尾根隊〉
吹雪 河野、和田OB、伊藤の3名で上級生隊を収容すべく、吹雪の中を出発する。2500mのコルで上級生隊と交信し、さらに上部へ進む。2700m付近で合流、4名とも元気そうで安心する。昼食をとり一緒に伝蔵小屋へ下る。
〈CT〉伝蔵小屋(7:00)~2600m地点(9:00)~上級生隊と合流(10:35~11:10)~伝蔵小屋(13:15)
1月7日 曇時々雪
伝蔵小屋に挨拶し、サポート隊の6名と一緒に下山。1700m付近で下から登ってきたOB救援隊(長谷川、岡澤、坂本、田中、宮川)に会い、一緒に下山する。さらに馬場島で西村OB、1年生4名と合流、昼食後に撤収して下山。逢沢からバスにて上市に行き合宿を解散する。
〈CT〉伝蔵小屋(7:20)~馬場島(10:00)~伊折(13:30)~逢沢(14:30)
あとがき
2 隊に分かれて展開した冬山合宿は、縦走を目指す上級生隊が悪天候に阻まれ(停滞日数11日)、最終下山日を 4 日も遅れてしまう。一方の赤谷尾根隊は上級生隊をサポートすべく、急遽、赤谷山アタックを取りやめ早月尾根からの縦走隊を収容する態勢に入った。さらにOBの救援隊も出動するはめになり、合宿終盤は非常事態となってしまった。
この事態を招いた上級生隊の行動についてリーダーの松田は、直接的要因を 3 つ挙げている。 1 つは前半戦(仙人山まで)で悪天候に見舞われ、さらに五十嵐が雪庇を踏み抜く転落事故が重なり、予備日を使い過ぎてしまったことである。比較的標高の低い仙人山までは多少の悪天候でも行動し、少しでも先に進むべきだった、と反省した。
2 つ目に天候判断の甘さを挙げる。前半戦折り返しの仙人山に到達した12月29日までに、すでに悪天候により 6 日間も停滞してしまった。このとき赤谷尾根隊に同行しているOBから引き返すことを勧められたが、上級生隊はそろそろ好天周期になると予測、 2 日間の晴れ間さえあれば早月尾根の安全圏に入れると判断したことである。
結果、その後は吹雪で 5 日間連続して小窓に釘付けとなり、最終下山日が大幅に遅れることになってしまった。極地法と違う厳冬期の縦走は、悪天候に見舞われた場合のエスケープ・ルートを事前に決めておくか、それとも思い切って反転し、下山する決断が求められる。
最後の要因は縦走隊が上級生のみという気安さから、過信が生じた結果と松田主将は指摘している。前半戦で縦走隊が置かれた現実を、それほど深刻に捉えず計画遂行に走ってしまった。そして、小窓で 5 日間停滞し事態の重大さに気付いたときは、周りで救援態勢を敷かざるを得ない状況になっていた。
結果として下級生主体の赤谷尾根隊は、途中から上級生隊のサポートに向かわざるを得なくなり、赤谷山アタックを取りやめた。一方、上級生隊は悪天候で最終下山日を超過し、混乱を招いてしまったがなんとか厳冬期縦走を成し遂げた。
近年にない密度の濃い計画であっただけに残念な結果となってしまったが、“積雪期縦走” に対する考え方、取り組み方を、この冬山合宿から学び取る点は多い。松田主将は総括の最後を「つまり計画を練り、偵察を行い、資料を作り、準備をして合宿に臨むという一連の行動に、知らず知らずの間に形式化が進みつつあるということである。
われわれはこれを機に形式化を戒めなければならないと思う」と締めくくった。いつの時代でも “マンネリ化”、“形骸化” という見過ごしてしまう落とし穴に、細心の注意を払わなければならないことを教えている。