1961(昭和36)年度から始まった「剱岳長期計画」は、基礎体力や登攀力の向上に大きな役割を果たした。この計画の 4 年目は実りある形で終止符を打つことが求められ、八ッ峰登攀だけは是が非でも計画に取り入れるべきだ、となった。そこで前年の春山合宿は大町トンネルから内蔵助平を横断、立山主稜線に延びる真砂尾根で下級生を強化、上級生は八ッ峰登攀への第一歩として三稜を偵察、引き続き剱沢横断の可能性を探った。
「剱岳長期計画」の最終年となる64(昭和39)年度は、第 1 次ニュージーランド海外合宿、さらに初めてのヒマラヤ遠征、ゴジュンバ・カンの準備も重なる慌しい年となる。リーダー陣は目標に据えた八ッ峰三稜末端からの完全縦走に合わせたスケジュールを組み、ファイナル・ステージへ向かうことになる。年が明けゴジュンバ・カン登山隊が出発すると、山岳部は「剱岳長期計画」のフィナーレに向け出発する。
登山概要
登山期間 | 1965(昭和40)年3月7日~24日〈実動17日、停滞1日 計18日間〉 |
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メンバー | 《縦走隊》 CL=菅沢豊蔵( 4 年)、SL=節田重節( 4 年)、西村一夫( 3 年)、坂本文男( 2 年) 以上 4 名 《本隊》 CL=麻生惇巨( 4 年)、SL=末松誠( 4 年)、SL=久保山道夫( 3 年)、伊藤頌司( 3 年)、斎藤郷太郎( 3 年)、近藤芳春( 2 年)、小野勝昭( 2 年)、吉沢清( 1 年) 以上 8 名計12名 |
行動概要
3 月 7 日に信濃大町からバスで黒四ダムの扇沢事務所に入り、先発隊と合流。間組のご好意により、大町トンネルを抜け黒部川左岸の飯場をベースハウス(BH)とする。翌 8 日、全員で丸山頂上から 1 つ黒部別山寄りの中継キャンプ地(RC)に荷揚げを行い、 9 日に中継キャンプを建設する。10日、 11日とBC予定地に荷揚げ、ルート工作を行い、12日、真砂尾根稜線上のジャンクション・ピーク(JP)の肩にBCを建設。いよいよ本格的な登山活動が開始された。
『炉辺』第 8 号(1980年 2 月発行)に掲載された「昭和39年度春山合宿―内蔵助平から八ッ峰、剱岳」(節田重節)から抜粋する――。
3月13日 雪
予想通り吹雪模様となる。BC隊は偵察の予定であったが視界が利かず、尚且つ雪崩の危険もあり中止。RC隊は深い積雪の中を出発したが、腰くらいのラッセルで、おまけに雪は非常に不安定で下降尾根の上で数回、表層を踏出す始末。平に出たもののラッセルはさらに深く、殆んど胸まで潜り一歩も進めなくなる。これではBCまでの到達は不可能と判断、またピーク2281mからの雪崩の危険もあり、荷物をデポしRCに引き返す。典型的な日本海低気圧通過後のドカ雪であった。
3月14日 晴れ
BC隊は昨夜の猛烈な吹雪で埋まったテントを掘り出した後、SC(八ッ峰縦走隊のためのサポート・キャンプ)の偵察に向かう。天候は回復傾向だが地吹雪がひどく、ラッセルは腰から胸に及び激戦する。
途中、雪崩の危険のある斜面に50メートルほどフィックスしハシゴ谷乗越へと下り、乗越手前でハシゴの左岸尾根に入る。尾根末端の近くに小さな丸いピークがあり、剱沢まで10分の所をSC予定地とした。剱沢は冬というのに所々不気味に真っ黒な口を開け、凍るような流れが望まれた。BC隊は帰路の登りにシゴかれてBCに引き返す。
RC隊は昨日のデポ地で荷物を梱包し進むと、予想通りピーク2281mから幅20メートルほどの雪崩があり、コチコチのデブリとなっていた。ちょうど昨日の引き返し地点より先が埋まっており、昨日むりやり進んでいたらと思うと背筋が寒くなった。13時にBCに到着、縦走隊の菅沢他3名がBC入りし、麻生他3名は急いでRCに引き返す。
3月15日 快晴
縦走隊の菅沢他3名とサポート隊の末松他3名は、昨日のトレースを辿り真砂尾根を下降、その後に左岸尾根に入り2時間ほどでSCに着く。快晴の空の下、全員素っ裸になってSCを建設、後はのんびり春山のひとときを楽しむ。
明日から始まる縦走を前に、眼前の八ッ峰1峰東面は余りにも大きく、1峰のピラミダルな鋭峰はとんでもなく高かった。そして三稜は所々黒々とした岩壁が顔を現わし、真正面から縦走隊を威嚇しているようだった。RCの4人もBC入りし縦走態勢は整った。
3月16日 曇り
3日間降雪がなく、昨日の快晴で雪も締まり落ちる雪はなくなった。朝5時、末松と久保山の2人がルート工作のため空身で先行、5時半に他の6名もライトを頼りに後を追う。左岸尾根は末端で緩い斜面となり剱沢に落ち込む。
雪崩を警戒し四方に注意を配りながら、四ノ沢からのデブリを踏んで急ぎ足で剱沢を渡る。三稜末端の大岩の左を巻き三稜に立つ。雪は落ち着きラッセルもなく早いペースでぐんぐん高度を上げる。
やがて下部の単調な尾根に突然、黒々とした岩肌に薄く雪をまとった岩峰が立ちはだかる(P1)。直登は不可能で、岩壁の基部を60mフィックスし慎重に左へトラバースすると、三ノ沢側より滑り台のクーロワールと呼ばれるルンゼが深く溝をうがちP3(ピークというよりはコブ)に向かって突き上げていた。ルンゼは硬く雪が締まり雪崩の心配もなくルートは容易なので登高すると、次第にルンゼは広がり、緩い斜面となり直接P3に立つ。
P3は3つのコブで極度にやせたナイフ・リッジを形成、下が岩のリッジのため足元が不安定この上ない。三ノ沢側は黒い岩壁を露出し、すっぱり切れ落ちているため一歩一歩丹念に足場を固めスタカットで通過する。3つ目のコブでリッジも広くなり、コルから一登りするとP4である。このP4はAC台地と呼ばれ、頂上は絶好のテントサイトであるが時間が早いので昼食後、三稜の難関であるP5のナイフ・リッジ突破にかかる。
三稜は三ノ沢側が切れており、P5も何本もの襞をつけた雪壁と四ノ沢側のルンゼとで鋭い三角形のピークを形作っている。頂上へ向かって一直線に延びるリッジは、最後に雪のハングとなって終っている。このリッジも岩が雪を寄せつけず崩れやすい。ピッケルのビレーが効かないので苦しい登高である。最後、かぶり気味の雪面をスコップで削り取り、雪まみれになって突破する。すぐにフィックスして荷物とともに全員通過する。
このP5を終えれば三稜も残るはⅠ峰まで、ただ高度を上げるだけの単調な登りで悪場は殆んどない。サポート隊もこれで任務を終え、荷物を置いてSCへ引き返す。残った縦走隊の4名はサポートの食糧が加わった重いキスリングを肩に、Ⅰ峰直下の広い雪原までと最後の力を振り絞る。
3月17日 曇り後霧
天気があまり良くなく今にも降り出しそうな空模様のため、5・6のコルまでの予定をⅠ峰までと変更する。今日中にⅠ峰直下の雪崩の危険箇所を通過しようと出発する。昨日のトレースでペースは早く、三稜はⅠ峰直下で三ノ沢と四ノ沢の源流が合流し、のっぺりした斜面となりリッジが消えて小さな雪崩の危険があった。
夏の偵察通り四稜側のリッジの縁沿いにルートをとり、昨日のフィックスを伝って四稜に立つ。稜線に出るとさすがに風が強くザラメ雪が吹き付ける。三稜の頭から痩せたナイフ・リッジとなり、強風の中を一歩一歩アイゼンを効かせて7時半、時々雪煙の渦巻くⅠ峰の頂上に立つ。頂上は長次郎側に向かって三角形の小さな平地となっており、ちょうどテント1張分の広さである。次第に天候は悪化しガスで視界もゼロとなり、急いで新調したばかりのナイロン・テントを設営、強風を予想し張綱やブロックを補強する。
SC隊の末松他3名はBCに引き返し、BC隊の斎藤、吉沢により真砂岳の第1キャンプ(C1)予定地の偵察が行なわれ、ルート工作が全て完了したとトランシーバーから飛び込んできた。明日は5・6のコル、ただただ無風快晴の幸運を祈るだけだった。
3月18日 晴れ
八ッ峰Ⅰ峰に静かな朝が訪れる。6時、節田と西村が偵察のため先行、いきなり痩せた岩稜の下りとなり慎重にスタカットで下りる。雪質が所々ザラメで足場が崩れやすく苦労する。1・2のコルからやや広い雪稜となり膝くらいのラッセルとなる。三ノ窓側に張り出した雪庇に注意しながら一登りすると2つのコブが並ぶⅡ峰となる。
2・3のコルへは夏道通り長次郎側を回り込むように下降する。ハイマツの上に乗ったザラメ雪が足元からボロボロと崩れ落ち、非常に不安定なので30メートルをフィックスする。心配したⅢ峰の岩のナイフ・リッジは、ちょうど手頃な雪稜となりコンティニュアスで簡単に通過、1時間半でⅢ峰に立つ。3・4のコルへの下りは急なヤセ尾根となり、持参した古いポールのフィックスド・バーを使用、20メートルをフィックスしてⅠ峰に引き返す。
Ⅰ峰では既に撤収が終わり、テントサイトを後始末したあと、一夜の夢を結んだⅠ峰を後にする。重い荷物を背負ってのⅠ峰の下りは厳しく、ザイルを握りしめる手が手袋の中でじっとりと汗ばんでくる。無風快晴、申し分のない登攀日和となる。心配されたⅡ・Ⅲ峰の下りもフィックスのお陰で難なく通過、3・4のコルで初めて大休止する。
この頃、真砂尾根ではまもなく真砂岳に第1キャンプ(C1)が建設され、末松他3名が入り、麻生他3名がサポートする。午前11時、縦走隊はⅣ峰の登りにかかる。この付近はラッセルが深く、膝上まで達する程である。三ノ窓側の急な雪面を下降、コルからも相変わらず雪は深く、Ⅴ峰への登りも汗だくとなり、ただひたすら高度を上げる。
正午、東西に細長いⅤ峰の頂に立つ。この頂上はテントを3、4張も設営できる広い雪面である。ここで本隊と交信でき、C1が既に建設されたことを知る。縦走隊の2名がフィックス工作のため先発、いよいよ問題のⅤ峰からの下降に入る。
ルートはほぼ夏道通りで、頂上より長次郎側の急な雪の溝に沿ってフィックスを張り、ステップを切って通常夏道で懸垂する肩に達する。この間80メートル、肩からは古いポールをピンに10メートルの懸垂でⅤ峰側壁の直下に達する。
全ての工作を終え再びキスリングを肩に、長い長い下降が続く。懸垂も荷物を吊り下ろして通過、見上げる岩壁の裾を水平にトラバースし、待望の5・6のコルに達し約2時間で下半の難関は突破した。縦走隊の面々に疲労の色は隠せなかったが、それ以上に安堵感が漂った。ここで本隊と連絡、今日はⅥ峰泊まりと伝える。
コルからノロノロとⅥ峰のガリーに向かう。ガリーと言っても急な雪溝の急斜面となり、積雪はさらに深くなり交代でラッセルしながら登る。Aフェース頭の右手のコルに出て、このガリーは終る。コルから第2のステップであるBフェース肩への登りは、雪質が極度に不安定で、ウィンド・クラストした内側はサラサラと崩れるザラメ雪であった。ともすれば重い荷物と崩れやすい足場のため、今にも滑り出して三ノ窓谷へ引き込まれそうな体勢を必死に支え、ピッケルのシャフトを深くたたき込んで死に物狂いでずり上がる。
長次郎側がスパッと削ぎ落されたBフェースの頭を越え、さらに数ピッチ、ただひたすらラッセルを繰り返す。全員フラフラになりながら午後3時半、やっとCフェースの頭に辿り着き本日の行動を打ち切る。夜8時、トランシーバー交信と懐電連絡でお互いの無事を確認し合う。真砂岳とJPから各々一つずつ、それは一匹のホタルほどの小さな光であるが、暖かな友情にあふれた美しく心強い光であった。
3月19日 晴れ後雪
定刻6時半に出発。晴れてはいるが時々ガスが覆い、悪天候の前兆であった。今日は午前中が勝負と、ルート工作なしで出発する。Cフェースの頭であるテントサイトからは昨日同様の膝くらいのラッセルとなり、雪稜通しを一登りすると双耳峰を成すⅥ峰の一つDフェースの頭となる。
下部にも増して長次郎側は圧倒的な高度感をもって切れ落ち、ピーク間のコルへの下降は岩混じりのリッジとなり、慎重にスタカットで下る。コルから再び雪稜を3ピッチでEフェースの頭に立つ。6・7のコルへの下降は、頂上の岩を利用して15メートルの懸垂、荷物は吊下ろす。右へ10メートルトラバースして、長次郎側へ雪庇が張り出すやや広いコルに達する。
この頃からガスは次第にその濃度を増し、南北に大きく立ちはだかる剱岳の障壁を乗り越え、東面へと静かに勢いよく流れ込んできた。時々、視界は僅か10メートルほどになり、雪庇と空間の境がつかめず、しばしば立ち止まらざるを得なくなる。Ⅶ峰への登りも馬の背のようなスノー・リッジで、確実にステップを刻んで約4ピッチ、東西に細長いピークに荷物を置く。遥か立山の方角は弥陀ヶ原からの強風に乗って怒涛の如く押し寄せてくる不気味な暗雲が、激しく主稜線にぶつかり黒部の谷へと流れ込んでいた。
いよいよⅦ峰からの下降にかかる。大きく張り出した長次郎側の雪庇に注意し、三ノ窓側の急な雪面を2ピッチ下降する。7・8のコルは広い雪面で、次第に左右の高度も消えたが、眼前に聳え立つⅧ峰の登りは厳しく、空に向かって鋭く延び上がっている。慎重に確保点を定め、西村がトップとなってこの最後の大物に立ち向かった。
次第に傾斜は増し、3ピッチ目で最高に達した。キスリングを背負ったままでは苦しく、今にも引きはがされそうになる体を押さえつけ、ピッケルとアイス・バイルを交互にぶち込みキック・ステップでジリジリと前進する。ピークに近づくにつれ傾斜は落ち、やがて4ピッチ目で這うようにしてⅧ峰に立つ。もう八ッ峰頭は目と鼻の先となった。トップに続き、セカンドも、そして次のパーティーも駆けるようにして頂に立った。そしてピークから1ピッチ下降、最後の緩やかな斜面を辿りチンネ側の岩稜を回り込んで9時40分、ついに八ッ峰頭に立つ。菅沢以下縦走隊の歓びはひとしおであった。
午前10時の定時交信で「こちら縦走隊!われわれはただいま八ッ峰頭に立ちました!全員元気いっぱいです!BC、C1の献身的なサポートに対し、心から感謝します!本当にありがとう」と仲間たちに伝えた。やがて歓びに満ち溢れた声がBCから、C1から、また4年生から、3年生からと矢継ぎ早に飛び込んできた。
にぎやかなトランシーバー交信は尽きなかったが、次第に空は明るさを失い、ガスの切れ間に望む富山平野は灰色のベールに被われ、まもなく雪になることを予感させた。本峰での交信を約し、八ッ峰頭より池ノ谷乗越へと2ピッチゆっくり下降、久し振りにどっかりと腰を据えて昼食をとる。
池ノ谷乗越からは他のパーティーのトレースに導かれながら、稜線を剱岳本峰へと歩を進める。長次郎のコルを通過、本峰肩への突き上げもフィックスとステップ跡を辿り、乗越から約1時間で剱岳頂上に立った。この頃から深いガスと雪が舞い始め、完全に視界が奪われたので早々にテント設営に取りかかる。
12時の交信で本峰無事到着を連絡、C1隊からは本日の浄土山へのロング山行が真砂尾根で地吹雪に見舞われ、浄土山は諦め雄山に登頂したことを知らされる。午後3時頃から完全に吹雪となり、久し振りに長い雪の夜をのんびり過ごす。
3月20日 吹雪
昨夜来の吹雪は止まず、風はさらに強さを増している。午前8時まで天気待ちするが、回復の見込みはなく停滞と決める。
3月21日 吹雪
風雪は休みなく続いているが、幾分風が弱まったので強引に出発、肩から頂上に立つ。しかし、頂上からの稜線はまったくの吹雪。日本海側からの猛烈な西風で殆んど目が開けられず、深いガスと相まってルートがわからない。
クサリ場への下降点を探しながら進むも、心配した通り早月尾根に迷い込む。慌ててもう一度出直すが、まったく進行不能となり、これ以上の行動は危険と判断、速やかに本峰肩へ引き返し、簡単にテントを設営し天気待ちとする。
幸い午前10時頃から時々薄日が射し、僅かながらも風が弱まったので行動を開始する。慎重に下降すると、ようやくカニの横バイを発見。東大谷から吹き上げる西風に凍りつくまつ毛をぬぐい、ザイルをシゴキながら追い立てられるように下降する。
視界は10メートル程でルート・ファインディングに苦労しながら何度となく登り降りを繰り返す。別山尾根のメイン・ルートは困難もなく、また前剱の下降もスタカットでスムーズに通過する。殆んど一服する余裕もなく、一服剱を一気に抜け、黒百合のコルにて行動を終える。
この日、C1隊とBC隊は別山乗越まで迎えに来たが、縦走隊は天候の回復が遅れたため合流はできなかった。その日の夕刻、トランシーバーで各隊に連絡し、明日の真砂岳での再会を約す。
3月22日 吹雪
風は弱いが雪がしんしんと降り積もり、全員でテントを掘り起こす。朝6時半、黒百合のコルを出発し剱御前を登り、剱山荘上のクラストした雪面を巻いて肩に出る。ガスが切れ薄日も射し出し、東大谷側のクラストした斜面を選んでピッチを上げる。
やがて薄暗いガスの中から、なつかしいヨーデルが聞こえ、次いで真っ黒に雪焼けした元気な顔が飛び出してきた。C1隊の3名だった。双方から雪を蹴散らすように走り寄り固い握手を交わす。話す必要もなく全て無言のうちにお互い通じ合った。
この上は一刻も早くBC隊に合流したいと、次第に風が強さを増すなか別山乗越へと急ぐ。乗越では風が一段と強く吹き、地吹雪となっていた。稜線を僅かな赤旗を頼りに行き別山を越える。
真砂岳までは猛烈な地吹雪となり、真砂尾根に入りヨーデルを連発しながらC1へ駆け下る。そしてC1で久し振りに元気な全員の顔が揃った。すぐにC1を撤収、2人、3人とザイルを結び、もう二度と再び訪れることのないであろう真砂尾根の稜線を次々とガスの中に消えていった。
後続部隊もフィックスを回収しながら後を追う。下山となるとピッチは自然と早くなる。ずっしりと重くなった肩の荷も気にならず快調に下りBCに着く。八ッ峰は今日もとうとう姿を見せなかった。
あとがき
幸いにも合宿実動に入ってから天候に恵まれたことは、計画遂行を大きく後押ししてくれた。特に計画当初の課題であった剱沢横断は、リスクを最小限にすることを優先に通過を 1 日のみとしたが、天候が味方し、サポート隊が 2 度も往復することができた。また、縦走隊は三稜末端から 1 日目にⅠ峰直下まで達し、結果、八ッ峰 5・ 6 のコルまでを前半戦の区切りとして行動でき、予備日数を充分保って縦走できたことは大きかった。
しかし、縦走の後半、核心部のⅧ峰でキスリングを背負っての登攀は、成否を分ける苦闘の連続となる。引きはがされそうな体を必死で押さえ、ピッケルとアイス・バイルを交互に打ち込み、キック・ステップでジリジリとずり上がるなど、 3 時間余りを費やし八ッ峰頭に立つ。この後、池ノ谷乗越から稜線をたどり、長次郎のコルを経て剱岳本峰に立った。
念願の八ッ峰頭に立ったときの行動記録の中で菅沢リーダーは、「我々の憧れであり、生甲斐でもあった八ッ峰、そして剱岳長期計画の総決算として若き日の情熱をかけた積雪期八ッ峰縦走は、今ここに無事、その大半を終了した。昨年の真砂尾根から、そして一昨年の北仙人尾根から大いなる憧憬と、かすかな恐怖の念で仰ぎ見た荒々しい八ッ峰。
真っ白な雪煙を天にも届けとばかりに巻き上げ、白銀の鎧をまとい、激しく躍動していた八ッ峰は現実にいま、我々の足元にひれ伏している。僅かな事故もなく、計画通りスムーズに成功できた喜びとともに、一つのことを一生懸命頑張って成し遂げた後に、張り詰めていた心の糸がプッツリと切れたような空虚な思いが交差する」と書き留めた。
当時、「剱岳長期計画」に関わった山岳部員にとって、越えなければならない最大目標の八ッ峰を完登し、その達成感と充足感はひとしおであったことだろう。
こうして内蔵助平を横断し八ッ峰末端より完全縦走という春山合宿をもって「剱岳長期計画」にピリオドを打った。 4 年間(昭和36~ 39年度)にわたる冬山、春山合宿は 8 回、延べ日数153日(冬山70日、春山83日)を雪の剱岳に投じた。さらに、この 8 回の合宿に参加した部員数は延べ147名(冬山80名、春山67名)にのぼり、いかに多くの部員たちが剱岳に打ち込んだか窺える。