特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

横尾尾根から滝谷登攀(1953) – 昭和28年度冬山合宿

 昭和も20年代後半になると世の中も落ち着きを見せ始め、日用品から食糧品まで  “モノ不足”  の影は薄らいでいた。一方、登山界は社会人山岳会の台頭が見られ、より厳しく、より困難な登攀や新ルート開拓に鎬を削るようになる。

 この1953(昭和28)年度は、山岳部を取り巻く環境が大きく変わる。 4 月に山岳部長が泉靖一先生から三潴信吾先生に引き継がれ、山岳部監督も藤井運平から大塚博美にバトンタッチされ、一気に若返りが図られた。

 そうした中、53年度の主将となった中村雅保は、年度目標に「長期高所幕営、バリエーションへの試み」を掲げた。これまでの極地法一辺倒から、バリエーションに富む岩稜登攀を採り入れ、新たな積雪期のステージへと進んでいった。

目次

登山概要

登山期間1953( 昭和28) 年12月 8 日~ 27日〈実働17日、停滞 3 日、計
20日間〉
メンバーリーダー=中村雅保、相蘇良正、田邊史、正部員=高木博三、窪田知雄、藤田佳宏、練木隆夫、大石克一、関定一、五十嵐弘、安達元男、柴田保    新人=岸貞雄、松本光司、高橋宏、栗芝営、毛利博行、阿部陽一    以上18名
幕営地ベースキャンプBC=槍沢小屋付近  第 1 キャンプC 1 =横尾尾根・天狗のコル  第 2 キャンプC 2 =南岳岩場下のテラス  第 3 キャンプC 3 =北穂高岳 第 4 キャンプC 4 =槍ヶ岳肩

行動概要

 長い行動記録なので、入山からC 1・C 2 建設までは省略する。この間の 12月13日、BCへ荷揚げしていた 2 年部員の柴田保が横尾小屋手前でスリップし20m下の河原に転落、頭部に傷を負い足を打撲した。負傷した柴田に高木が付き添って松本の病院に連れて行くという事故があった。以下、12月18日以降の行動記録だが、この行動概要は、『炉辺』第 7 号(1962年 3 月発行)に寄稿した中村雅保の「横尾尾根からの滝谷登はん」より抜粋する――。

12月18日 晴
〈C1隊〉
 C4建設にC4、C1隊で槍に向かう。前日の雪でラッセルの跡は消されており、おまけにストーブの調子が悪くガス中毒気味となり、稜線に出るまで大分時間を取られた。中岳の下りにザイルを付けて新人を降ろし、肩ノ小屋より30メートル手前の風当たりの強い所にカマボコ型テント(C4)を張り、C4隊の田辺、藤田、松本、毛利が入り、C1隊は往路を引返す。

〈C2隊〉
 快晴に恵まれ前日のフィックスを伝い順調に北穂の頂上に立つ。頂上の手前の少しばかり低い地点に、新調したナイロン・テント(C3)を張り相蘇、関、練木の3名が入る。これで入山以来10日目に最終テントを建設し、明日から1週間の高所幕営に入る。

12月19日 高曇夕方晴
〈C1隊〉
 柴田に付き添う高木が来ないため、連絡に3名下ろすと、手紙にて高木の調子が悪いことを知り、2名が上高地に下る。中村他3名はC2へ向かう。途中、南岳付近でC2隊と会い共にC2へ下る。メンバーを変更しC2、C3を1名ずつ増やして配置する。

〈C3隊〉
 空は一面に朝焼けしており、天候悪化と思われたが前穂まで行くことにし出発する。天候を気にして歩いたせいか、奥穂には思ったより早く着くが、奥穂から前穂の間はエビのシッポが生じ、雪の状態は極めて不安定である。前穂の最後の登りには疲労の色も濃くなり、天候も益々悪くなる。休む間もなく引き返し、穂高小屋にて小休止する。涸沢槍を下る頃から天候は持ち直し、テントに帰り着いた頃はすっかり良くなってしまった。

〈C4隊〉
 新人2名を残し田辺、藤田の2名にて独標に向かう。槍の穂先は雪が思ったより少なく簡単に頂上に出る。頂上から30メートルをフィックスして下り、尚アップ・ザイレンを繰り返して北鎌平に着く。北鎌尾根は意外に雪が少なく、雪庇もあまり出ていない。風もなく気持ちの悪い天候は、ようやく悪化の兆候が見えて経過する時間に気はあせるが、初めてのためルートを取り違えたりして、右屈曲点に着く頃は既に11時過ぎになり、ここより引返すことにした。

12月20日 晴
〈C1隊〉
 3名にて槍へ向かい稜線にてC2隊と会い、一緒にC4へ行く。C4は既に出発しており、西鎌に足跡が点々と見える。連日の天気で雪も消え、少なくなった穂先を太陽の日を浴びながら頂上に登る。昼食を小屋の前にてトカゲと決め込みながらゆっくり取り、それぞれC1、C2へと帰る。

〈C2隊〉
 稜線にてC1隊と会い、一緒に槍の頂上に登る。

〈C3隊〉
 朝から天気もよく、昨日1名増えたので、2パーティーに分かれ滝谷第3、第4尾根を登ることにして出発、C沢左俣を下る。

〈第3尾根隊〉
 練木、五十嵐でT4下にてアンザイレンをしてコルに出る。ここから様相は一変して岩は氷が張り付き滑りやすく、ステップを切りながら慎重に登る。P2の下から崩壊した所を大きく回り込み、ルンゼの左側を巻いてP2の先へ出る。この先は蒼氷の張り詰めたイヤな岩峰で、このコース最悪の難所だ。カットされた氷片が遥かな谷底にカラカラと落ちていく。苦闘の末、P1に出てホッとする。P1から先はグッと楽になり、縦走路に簡単に出て16時30分過ぎ帰幕する。

〈第4尾根隊〉
 相蘇、関の2名で、第3尾根の末端を左に見るスノー・コルから尾根に取付く。相蘇、関の順にアンザイレンして、コルからすぐ岩に取付くが、薄氷をのせた小さなホールドはアイゼンとオーバー手袋をつけた重装備の我々を脅かす。

 Aカンテは第3尾根側のベルグラに覆われたハングを吊り上げにて突破し、Bカンテは慎重なビレーに送られて一番困難な所で1時間の苦闘の末、やっとツルムの下のテラスに出る。ヨーデルを交わせば、第3尾根隊は既に悪場を越えたらしく、急峻な谷を隔てて、かすかにピッケルの岩に触れる音が聞こえる。ツルムは一見、氷で覆われて、ちょっと手強そうである。所々ステップを切り、慎重にザイルを張りながら数十分の後、頭に出る。

 下りは岩角にザイルを掛けて懸垂する。Cカンテは氷のためホールドがなく、苦しい登りであったが、そこを越せば後は悪場なく縦走路に出る。過去の記録より相当時間を要することを予想していたが、登攀はスムーズに進み、夕闇迫る17時頃帰幕する。テントにて夕食後、お互い今日の完登を喜び合い、明日の計画を検討する。

〈C4隊〉
 4名にて西鎌を下る。クラストした歩き良い所を1時間。所々に夏道らしい地面を見ながら、殆どリッジ通しに雪稜を行く。吹き溜まりはラッセルがひどく歩きにくい。赤岳とのジャンクションから赤岳へ向かう。

 この辺りから雪稜は次第に鋭くなり、所々に岩峰が現れ、最後の岩峰は30メートルぐらい懸垂で下り、トラバースして尾根に立つ。雪稜は相変わらずナイフ・リッジで再び30メートル下り、次の尾根に出る。

 ここで新人を残し、先を偵察したが、今までより更に悪場が続き、新人を残して先に行くこともできず引返すことにする。西鎌の最後の登りには、数回立ち止まりながら休み、帰幕する。

12月21日 晴
〈C2隊〉
 岸1名をテント・キーパーに残し窪田、安達の2名にて北壁に向かう。途中、イカの頭の先から左のカールを下り北壁末端から取付くも、岩場は途中、大した所もなく中段のテラスから上の1カ所にハーケンを打って乗越し縦走路に出る。岩場は終始日陰のため非常に寒かったが風はあまり無かった。C3へ連絡に行きC2へ帰る。

〈C3隊〉
 連日のアルバイトにより疲労の色が見え、1名体の調子が悪くテント・キーパーに残して3名にて左俣を下り、第2尾根の途中のコルに登る。第2尾根は他の尾根と比べると比較的楽な登りで、途中コンティニュアスの練習をして12時、縦走路に出る。

〈C4隊〉
 風は朝から強く吹く。C4設営以来、他のテントの者にも会わないので、今日はC1とC2へ連絡に行く。途中C1に行き種々の経過を聞き、お互いの元気な行動を知る。ともにC2へ行き、C2の1名と会い帰幕する。

12月22日・23日 風雪のため停滞

12月24日 晴後高曇
〈C1隊〉
 2日間の風雪、その上、吹き溜まり気味のテントのため、四方はすっかり壁になり、井戸の底にいるようであった。横尾尾根はラッセルが消えて深い新雪に覆われ、再び腰までのラッセルに悩まされた。その上、テントの掘り出しに時間を取られ、出発時間が遅れ、稜線に出た時は昼になっていた。天候も崩れたためC2だけに連絡して途中から引返し、テントの整備に午後を過ごした。夕方、ホテルから中村が帰る。

〈C2隊〉
 3名にて北穂に向かう。風が強いため雪の状態は前と変わらず、毎日通っているため時間もはかどり、途中でクラック尾根を登っている2名に会う。ともにC3に行き、撤収などの打ち合わせをする。

〈C3隊〉
 今日は東稜とクラック尾根の二つに分かれて行動する。

〈クラック尾根隊〉
 相蘇、練木の2名にてB沢を下り、クラック尾根に取付く。氷の側壁をワン・ピッチでリッジに出て、そこからキレット側を2ピッチ進みクラックに達する。クラックは雪が詰まり、左側の岩はベルグラに覆われ手懸りを求められないため、クラックと右壁とにフリクションで突破を試みるが失敗する。

 この頃、C2隊がキレット寄りの尾根に現れ、チーフ・リーダー下山の報をもたらしたため登攀を中止、B沢からC3に帰る。テントに帰ってC2隊の者と会い、話の聞き違いを知り残念に思った。

〈東稜隊〉
 五十嵐、関の2名がテントの所からすぐリッジ通しに下る。連日の晴天の上、2日間の風雪が続き、雪の状態は非常に悪く、所々足下より亀裂を生じ雪崩の危険を感じさせる。東稜は技術的に難しい所もなく、いつも夏に涸沢から取付く地点の手前から往路を引返し帰幕する。

〈C4隊〉
 出発が遅れたが急いで独標に向かう。風雪のため槍の穂先は雪が多く、エビのシッポが無数にできて歩きにくい。非常に時間を取られる。頂上から先日と同様に北鎌平に下る。雪の状態は先日と大差なく右屈曲点までは難なく来るが、ここから先は2名とも未知で時間を食う。岩峰を千丈側に巻き、またはリッジ通しに進み、途中で反対側を巻いて、また戻ったりし、大分時間をロスして13時独標に着く。

 天候の悪化と周囲の日陰の中で見る槍までの距離は、遥かに遠く見え、今歩いて来た所をまた引返すかと思うと、ウンザリさせられる。食事もそこそこにして、急いで往路を引返す。北鎌平に来た時は日は既に西に隠れて、辺り一面薄暗くなり慎重に穂先を登る。頂上にて往路につけたザイルを引き上げた頃は、夕闇も濃くなり17時30分帰幕する。

あとがき

 ここに載せた昭和28年度の冬山合宿は、最終キャンプ地を北穂高岳(C 3 )と槍ヶ岳の肩(C 4 )に配置し、高所幕営に入ってからバリエーションの登攀と稜線歩行のロングランという画期的なプランで臨んだ。まさに新しい登山の幕開けを告げる冬山合宿となった。

 槍ヶ岳の肩に設けた第 4 キャンプ(C 4 )からは、新人を中心に西鎌尾根を経由し赤岳方面を往復、また北鎌尾根は独標を折り返す岩稜歩行が行われた。赤岳隊は途中で引返す結果で終ったが、北鎌尾根隊は概ね成功裡に終わる。一方の上級生隊は北穂高岳に設けたC 3 を拠点に、バリエーション登攀を滝谷で敢行する。

 C沢左俣からの第 2 尾根をはじめ、ドームから派生しC沢を左右に分ける第 3 尾根、ひときわ目立つツルムと 4 つのカンテを持つ、滝谷で最も長大な第 4 尾根、顕著なチムニー  2 本で構成される北壁、滝谷では古典的なルートのクラック尾根、そして北穂小屋に通じる東稜と、数多いルートを登攀した。この中でクラック尾根だけは中途で終ったが、天候にも恵まれ、滝谷第 2・第 3・第 4 尾根の登攀に成功する。

 こうした結果を残せたのも、戦後間もない冬山合宿と比べ、装備の面で格段の進歩があったことは見逃せない。例えばテントは、これまでのウィンパー変形型に加え、この合宿で初めてカマボコ型のナイロン・テントを新調、槍ヶ岳肩の最終キャンプC 4 に設営された。また、ザイルも従来の麻に加え、東京製綱のナイロン・ザイル 1 本を持参、登攀時には軽くて使い勝手が良かった。さらに石油コンロの故障もなくなり、 5 、 6 年前の寒さは解消し、装備品の進歩、改良は目を見張るものがあった。

 こうした登山用具の充実には、前年の1952(昭和27)年から始まるマナスル遠征が大きく影響したようだ。戦後、日本人による初めての8000m峰への挑戦が始まると、高所での様々な装備が開発され、こうした製品が一般にも出回るようになったと思われる。

 この合宿で中村たちリーダー陣は、スピード化を目論んだ。速やかに前進キャンプを設営するため食糧や器具の軽量化を図り、また、横尾尾根の取付は末端からだとキャンプが 1 つ増えるため、槍沢側の支尾根から取り付くなど苦心の策が見られた。

 振り返ると、長期高所幕営とバリエーション登攀を展開したこの合宿は、戦後発展期の扉を開く意味で、大きな転換点になった。日本の登山界はヒマラヤの高峰に挑む時代を迎える。この冬山合宿から 7 年後の1960年、戦後初めての海外遠征隊がマッキンリーへと向かった。まさ海外に挑むことを想定したかのような冬山合宿であった、と言える。

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