長い戦争が終わっても、すぐ山に登れる状況ではなく、生きるため食いつなぐ生活で精一杯という日々であった。復員や勤労動員から戻った学生たちは部室に集まり、部の再起に取り掛かった。
そして1946(昭和21)年春、部活動を再開する。山岳部は戦後初めての夏山合宿で、涸沢一番乗りを果たす。翌年 3 月15日から28日にかけ、念願の極地法登山を初めて実践した。
松川・二股にベースキャンプを設け、杓子尾根からキャンプを延ばし杓子岳を目指した。当時、テントは冬用 2 張と夏用 2 張しかなく、雪洞を掘ってキャンプを延ばす苦肉の策で挑んだ。このときリーダーの大塚博美は、厳冬期の畳岩尾根から奥穂高岳への極地法登山を思い描いていた。
登山概要
登山期間 | 1947( 昭和22) 年12月10日~ 26日〈実働14日、停滞 2 日、休 養 1 日、計17日間〉 |
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メンバー | リーダー大塚博美、広羽清、大嶽隆治、桜井(後姓・平野)清茂、佐藤大吉、永井拓治、児島貞雄、飯田貞夫 以上 8 名 |
行動概要
先発隊(児島、飯田)が12月 8 日に、本隊が翌 9 日に出発、10日、一緒に上高地へ入った。11日と12日で荷揚げを行い、13日に前明神沢からやや上部の台地1800mにベースキャンプ(BC)を建設した。14日は休養した後、いよいよ登山活動に入る。ここからは大塚博美が『炉辺』第 7 号(1962年 3 月発行)に寄稿した「畳岩尾根から奥穂高へ」から抜粋する――。
12月15日 風雪
各自5貫匁(約20キロ弱)程度の荷を背負って出発する。風雪のため谷全体の様子はわからぬが、ナダレ沢下部と中明神沢下部(扇沢から出たもの)には、かなり多量のデブリを見た。
尾根の取付き地点はリッジを中心として、天狗沢側はヤブがひどく問題にならずコブ尾根側にルートを求め、ナダレ沢より一つの支沢をおいた下部に、岩の露出したリッジを選んだ。この岩場に15メートルの固定ザイルを設け、ブッシュを切り開いて突進する。傾斜がきつい上に、ラッセルと切り開きのアルバイトで予想通り手間取って荷物を置いて下る。
12月16日 曇後降雪
ボッカ地点よりC1予定地までは傾斜と深い新雪に悩まされ、頭上にスコップを振ってラッセルする。これを越えると森林限界は終わり、一帯は雪面だけになって来たが、新雪のラッセルはいよいよ深く、踏み跡にアイゼンで痛めつけられたハイマツが見られた。雪量が少なく、加えて粉雪なのでブロックを作るのに手間取る。全員協力してテントを建設(2500m)し、C1メンバーの広羽、桜井、飯田が残り、後はBCへ下る。
12月17日 快晴
素晴らしい快晴だ。雲一つない青空は、まぶしいほどの陽光にサングラスの存在を思い出す。BC隊はC2用の食糧や器具をC1へボッカ。C1隊は上方へラッセル。この期間を通じて、ただ一度の好天であった。
以下、整理された内容を続けます。
12月15日 風雪
各自5貫匁(約20キロ弱)程度の荷を背負って出発する。風雪のため谷全体の様子はわからぬが、ナダレ沢下部と中明神沢下部(扇沢から出たもの)には、かなり多量のデブリを見た。
尾根の取付き地点はリッジを中心として、天狗沢側はヤブがひどく問題にならずコブ尾根側にルートを求め、ナダレ沢より一つの支沢をおいた下部に、岩の露出したリッジを選んだ。この岩場に15メートルの固定ザイルを設け、ブッシュを切り開いて突進する。傾斜がきつい上に、ラッセルと切り開きのアルバイトで予想通り手間取って荷物を置いて下る。
12月16日 曇後降雪
ボッカ地点よりC1予定地までは傾斜と深い新雪に悩まされ、頭上にスコップを振ってラッセルする。これを越えると森林限界は終わり、一帯は雪面だけになって来たが、新雪のラッセルはいよいよ深く、踏み跡にアイゼンで痛めつけられたハイマツが見られた。雪量が少なく、加えて粉雪なのでブロックを作るのに手間取る。全員協力してテントを建設(2500m)し、C1メンバーの広羽、桜井、飯田が残り、後はBCへ下る。
12月17日 快晴
素晴らしい快晴だ。雲一つない青空は、まぶしいほどの陽光にサングラスの存在を思い出す。BC隊はC2用の食糧や器具をC1へボッカ。C1隊は上方へラッセル。この期間を通じて、ただ一度の好天であった。
12月18日 晴後風雪
〈BC隊〉
BC隊はC1隊と合流してC2建設のサポートに向かう。次第に尾根は痩せ、岩場に着いた頃より天候が崩れ出し、またも風雪となった。11時30分、懸垂下降で天狗沢側を巻く。40メートル・ザイルを固定する。
各自、相当の荷を背負いながら、吹き上げる風雪に抗して、やせ尾根で順番を待つのは非常につらい。時間はどんどん経過する。いたずらに遅々としている拙劣な作戦を捨て、ザイルを固定し荷を置いて下る。C1隊のメンバー変更を行い、永井、桜井、大嶽のC2隊員をC1へ置く。
12月19日 風雪
〈C2隊〉
メンバー変更で張り切った一行がC2へボッカに向かう。C2建設の重大任務を感じ、慎重にアンザイレンして登る。岩場の雪は落ち着かず、岩登りは困難を極める。尾根のツメ近くなると、リッジは自然に国境稜線の斜面と一緒になり、雪面の斜面となる。上下左右から吹きまくる風雪のため視界は利かず、キャンプ建設を断念して荷を置き下る。
全く風の猛威は行動の自由を奪い、机上プランは覆され、五体は痛めつけられるが奪い去れぬものは、ただ我々の闘魂だけだ。BC隊から桜井が携帯燃料等を持って連絡に向かい、「明日風雪ならば停滞、稜線が見える程度の場合はC2を建設せよ。BCからサポートに向かう。奮闘を期待す」と伝えると、彼らからも「天候の好転を祈りつつ全力を尽す、サポートを期待す」との返事があった。
12月20日 風雪
〈C2隊〉
寒さと窮屈なため、まんじりともせぬ一夜を過ごす。テント内は零下8度であった。天候が気になるが、入口が凍りついて開かない。携燃で入口を暖め外に出ると、天候は昨日同様で滞在を決める。テントの除雪を行い、ゆるんだ張り綱を直す。ガソリン節約のため温度は上がらず寒い。
14時20分ごろBCから児島がガソリン1升を持参。大塚リーダーの檄文を見て、一同は翌日に期待を込めて張り切る。夜には風も静まり、星さえきらめく。明日こそ絶好の機会と早めに寝る。
12月21日 曇後風雪
〈BC隊〉
今日こそは何としてもC2を建設しなければならない。緊張のうちに3時30分起床。C1隊が出発する前に合流すべく、児島を残し、大塚、桜井、飯田がサポートに向かう。C1に到着すると、ちょうど出発しようとしていた。この頃から次第に風が出て、天候は悪化の兆しを見せる。
ボッカ地点からC2予定地のジャンダルム基部までは約40分で到着。傾斜は15度ほどで飛騨側に傾き、雪量は豊富で適度に締まっており、作業がはかどる。7人で協力して強風に押されながらキャンプを建設(2800m)。気温は零下25度を示すが、興奮のため寒さはあまり感じない。40分余りで作業を終え、C2隊の奮闘を祈りながら下山。
C1には広羽、桜井、飯田が留まり、大塚はBCへ下る。これで待望のC2建設が終わり、登頂態勢が完了した。悪天候にもかかわらず、比較的順調に進行したことは喜ばしい。BCでは今日から木炭で炊事を開始。石油缶のコンロを使用し、快適な環境を保つ。
12月22日 風雪
〈C2隊〉
寒さのため寝袋の中でじっとしていられない。早速、石油コンロをつけて暖を取る。テント内は一面の霜が石油コンロの光でキラキラと光る。気温は零下10度。外の様子は相変わらず風雪で、30メートル先のジャンダルムも見えない。
それでも出発を決意し準備を整える。ジャンダルム下は物凄い吹き溜まりで、スッポリ首まで入ってしまい驚く。ジャンダルムを越す際、飛騨尾根を間違えて下り、第2岩峰の下まで行ってしまう。視界が悪く、間違いに気づき急いで引き返すが、大きな疲労と落胆により無言のままテントに戻る。
如何に視野が利かなかったとはいえ、今回のミスは取り返しのつかない不注意だった。感覚のなくなった手足をさすりながら、明日の行動を協議する。命を縮めるほどの苦戦に直面し、燃料の不足が命取りになることを痛感。明日こそアタックを成功させる覚悟で夜を迎える。
12月23日 曇後風雪
〈C2隊〉
5時30分起床。天候は昨日より穏やかでジャンダルムが見える。昨日の失敗を教訓に緊張感を持ち、準備を整えて出発する。予想外に簡単にジャンダルムを越え、夏道通りに進んで1時間足らずで奥穂高に到着。
昨日の苦戦が身に染みていただけに、あまりのあっけなさに気が抜ける。しかし、登頂の感激は言葉に尽くせない。この瞬間に責任を果たした満足感が湧き、全身の緊張が解けるようだった。
BCやC1隊の仲間たちの喜ぶ顔が目に浮かび、早速下降を開始。雪の状態は11月の新雪当時より少なく、ロバの耳下のクサリは完全に露出していた。テントに戻ったのはまだ10時前で、ゆっくりと昼食を取ってサポート隊を待つ。
12時半頃、「ヤッホー」の声とともに広羽、飯田の元気な顔が現れる。彼らと喜びを分かち合い、成功を祝い合う。
あとがき
助川の薫陶を受けた大塚と広羽の 2 人は、戦前から残された極地法登山を是が非でも実践しなければならないという使命感に燃えていた。しかし、当時は戦後間もないころで、食糧の確保から装備の調達まで、合宿以前に難題が横たわっていた。さらに戦後入った部員たちは経験不足もあり、冬山合宿が実現できるのかさえ見通しのつかない状況だった。そうした中、マネージャーの役割を担う広羽は先輩たちを訪ね、物品の協力や合宿費の工面に奔走する。交野武一は三井の倉庫からロウソクを分けてくれ、越部半治郎は精進揚げに使うカボチャの油を寄付してくれた。
こうした難題を一つ一つ乗り越えながら、戦争によるブランクを挟んで 6年越しの目標に立ち向かった。その準備として春山山行を白馬の杓子尾根で行い、極地法登山の訓練を実施、 5 月には残雪期の岳川谷に入り、畳岩尾根の偵察と新人の訓練を行った。 7 月は夏山合宿の一環として岳川谷に入り登攀ルートを偵察、11月は新雪の畳岩尾根の下見と冬山合宿用の荷揚げを実施するなど、着実に準備を整えていった。
こうして1947(昭和22)年度の冬山合宿本番を迎える。実動17日間のうち好天は12月17日のみ、メンバーは粗末な装備で風雪と酷寒にさらされた。12月22日の第 1 次アタックは、視界の悪さでルートを間違え失敗したが、翌日 23日、アタック隊の大嶽、永井、佐藤は、最後の力を振り絞り奥穂の頂に立った。
中でも新人の大嶽と永井の 2 人は初めての冬山経験だったが、気概と体力では群を抜いていたという。連日、胸や首までのラッセルを強いられ、さらに途中でルートの間違いやアクシデントも起きた。
23日に広羽と一緒にアタック隊のサポートに向かったC 1 隊の飯田が、途中で小さな表層雪崩に遭い10m流されたが、幸い怪我もなく止まった。また同じ日、BC隊の児島が撤収を終え尾根を下っているとき、スリップしてナダレ沢側に100mほど墜落、同行部員は駄目かと思ったが、これも怪我なく無事だった。穂高の女神が部員たちを守ってくれたのだろうか。
こうして戦前からの宿題であった極地法登山に取り組んだ1947(昭和22)年度冬山合宿は、様々なハンディキャップを乗り越えて成功、敗戦によって打ちひしがれた部員たちを奮い立たせた。それは明大山岳部を蘇らせ、戦後復興への大きな第一歩となった。