奥穂高岳を盟主に北穂、前穂、そして西穂と続く岩稜に連なる岩壁群は、剱岳、谷川岳とともに日本の三大岩場と称された。1930年代に入るとアルピニズムの実践を岩壁に求めていくようになる。
大学山岳部はじめ社会人山岳会は、穂高の岩壁や岩稜に熱い視線を注ぎ、新たなルート、より困難なルートを開拓すべく熾烈な競争が始まった。そうした中、穂高の岩壁に母校の名を印すルートが、 2 人の部員によって切り拓かれた。
登山概要
初登時
登山期間 | 1936(昭和11)年 8 月12日~ 22日 奥又白池生活 |
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メンバー | 小国達雄、人見卯八郎 以上 2 名 |
積雪期
登山期間 | 1936(昭和11(1936)年11月 1 日~ 12日 奥又白池生活 |
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メンバー | 小国達雄、人見卯八郎、後藤大策 以上 3 名 人夫:上条孫人 |
行動概要
ここに小国達雄が『炉辺』第 8 号(1980年 2 月発行)に寄稿した一文を掲載する――。
前穂高北尾根第 4 峰東南壁明大ルート 小国達雄(昭和16年卒)
私も思い出を書く年ごろになったかと思うと、そぞろ人生の晩秋を感じる次第である。明大ルートは登ったあとでは、明るい、気持ちの良いポピュラーなルートとして、多数の人に親しまれているようだが、登高前の大方の予想は困難とのことだった。
当時(昭和11年 8 月)、今は亡き人見兄と私は予科 2 年生であり、山岳部の夏山、合宿も全て終わり、社会人グループの友人と奥又白の池にキャンプを張っていた。当日( 8 月19日)は快晴、仲間は 4 峰の壁へ、我々は 3・ 4 のルンゼを登り涸沢の仲間の所へ遊びに行くつもりでキャンプを出発した。
もちろん経験と腕の問題もあったが、ただし道具の準備はしていった。奥又白雪渓をトラバースして 4 峰のすそから 3・4 のルンゼの雪渓に入り、仲間は東南壁中央末端に取りついた。間もなくハーケンを打つ音が我々の心をゆさぶった。大部苦労しているようだ。
私は奥又のキャンプから見て、左側逆層面と中央左の傾斜の境面にルートがあるように思っていたので、『行こうか!』と相棒に声を掛けた。『うん』。それからアイゼンを脱ぎ、ガラ場を一気に壁の中間下まで登る。
まずオーストリア製のジッヘル・ハーケンを打って、右上がりのタナを、我々がその後 “大きな鼻” と呼んだ 4 峰東南壁の中央にあるオーバーハングの手前まで行く。その左側の直登にかかったが、うまくゆかず、効くハーケンも打てなかった。
止む無く少し後戻りして、外開きのチムニー状の中央リスに 1 本打ち、それを足場に上の逆層緩傾斜へ出た。そのまま右上順層面へワンピッチで到達。『よし、来い!』というわけで、ザイルを引き一緒になり、後は頂上目がけて登り、オーバーハングの下を右へトラバースした。頂上右下の快適なクラックを登り 4 峰に達し、お互いの健闘を祝し握手した。所要時間は 1 時間強であったと思う。
仲間がなかなか登って来ないので、中間地点の上まで迎えに行った。直登を心掛けたためか時間がかかり、結局、我々のルートと合し、登って来たので一緒になり、涸沢の仲間の所へ行き、喜びを分かち合った。これが前穂高第 4 峰東南壁バリエーション『明大ルート』開拓の経緯である。
さて、次は積雪期である。新雪の11月、今度は人見卯八郎、後藤大策、私の 3 人のパーティーで、ウィンパー屋根型の天幕を奥又白池に張って時を待った。
晴れ上がった10日、人見と私は勇躍出発。夏通りのルートをジッヘル・ハーケンまで登り、新雪のタナを右上へ。夏打ったハーケンまで到達したが、全面、油氷で手を掛ける所がない。止む無く同じリスの上部へもう一本打つ。後で考えると余り音がよくなかった。それに足を掛けた途端、スーッと落ちて仰向けに宙吊りとなり、新しく打ったハーケンとカラビナが 7 ~ 8 メートル伸びたザイルを音を立てながら降りて来る。人見はと見ると、前穂の壁を落ちている雪崩を見ている。
やがて、こちらに気が付き、『なーんだ、落ちたのか?』とケロリとした感じ。『これくらいで』と気を取り直し、ザイルをたどり夏のハーケンまで達し、厚目のハーケンを探し、今度はガッチリ打って、ようやく上へ出た所でザイルはいっぱい。
この頃から吹雪になってきた。声が通らない。事前打ち合わせが無かったので、止むなく逆層に気安めのジッヘル・ハーケンを打った。『さあ、来い!』とザイルを引く。最初からしめっぱなしにしていた。こちらは右足しか確実でなかった。彼の顔が見えた途端、グーッと重力が掛かり、肩がらみザイルが素手から 1 メートルばかり延びる。
『早くしろ!』と言ったが、声にならなかった。ほんの何10秒という時間だったと思うが、彼が取りつくまでが14~ 5 分にも感じられた。ほんとに危なかった。ここで落ちれば200メートル近くの中空を飛んで終りになるところであった。
後でわかったことであるが、ハーケンを打った上部出口に浮石があり、私は夏冬とも知らずに登った。彼や他の仲間はそれを知っていたが、それにまた手をかけ、胸に抱いてしまったという次第であった。ようやく一緒になり順層面に出たが、新雪の急斜面を直登する頃、時計を見ると午後 6時であり、ビバークすることにしてツェルトにもぐる。
アイゼンを履いたままの足が冷たい。奥又白のテントの前で残留の後藤氏が、長い間ランタンを左右に振っているのが吹雪の切れ目で見える。心暖まる人の情を感じる。心配しているのだろう。こちらでは、それほど感じなかったが、テントは半つぶれ、外に置いてあったナベなどは吹っ飛ぶほど風が強かったようだ。
11日午前 6 時直登開始。滝のように降る雪を頭からかぶりながら、夏仲間のパーティーを迎えに行く時、懸垂で降りた頂上下のオーバーハングの下まで登る。夏に登ったクラックまで行けばと思ったが、新雪面のトラバースが無理に思えたので、オーバーハングを苦労して登り、午前10時ごろ 4 峰頂上に立つことが出来た。
吹雪も小やみになり空も明るくなってきた。何の感慨もなく、ただ満ち足りた楽しさが一杯で、ぐしょ濡れの身体に何の寒さも感じなかったことを記憶している。後は 3・ 4 のコルから、つるべ落としで奥又白の雪渓まで下り、テントへ帰った。
あとがき
天性のバランス感覚を持つ小国は、明大山岳部に入ってから岩登りで頭角を現し、旧制明治中学校から親しかった同期の人見と岩登りに傾注していく。 2 人のロッククライミングは、社会人山岳会との交流で腕を磨いた。
小国の一文に「社会人のグループの友人と奥又白の池にキャンプを張った」とある。この事実は特別会員の入澤郁夫氏が、日本山岳会の機関誌『山岳』に書いた海野氏の追悼文からわ分かる――「(中略)又、1936(昭和11)年 8月(19日)には前穂高北尾根 4 峰明大ルートを小国達雄さん、人見卯八郎さんの 2 人が初登攀した翌日に(海野治良さんは)川森時子さん等と第 2 登するなど第一線で活躍されて居りました。(中略)」とある。
まさに奥又白で一緒にキャンプを張っていたのは、海野氏たちのパーティだった。なおかつ、小国と人見が 4 峰東南面を初登攀した翌日、海野氏たちが第 2 登を果たしていた。
この夏の奥又白キャンプは、錚々たる岩登りのエキスパートたちと一緒だった。小国と人見は北尾根第 4 峰東南面に前々から新しいルートを切り拓けないかと、強い関心を持っていた。小国たちは北尾根第 4 峰に可能性のある一本のルートを想定、中間帯にある難所のオーバーハングさえ乗り越えれば、自分たちで登れるという確信を持ったようだ。
新しいルートを開拓した小国と人見は、積雪期に他人に登られる前に登ろうと、穂高に雪が降るのを待って11月に挑んだ。このときは 1 年後輩の後藤大策を連れ、 3 人で奥又白池にテントを張った。11月10日、後藤をテント・ キーパーとして残し、 2 人は新雪が積もった東南面に取り付く。
しかし、夏とは違って所々氷壁となり、ホールドやスタンスに難渋したようだ。さらに小国が宙吊りとなるアクシデントもあり、 1 日で登攀することができず、途中でビバークを余儀なくされる。そのとき、奥又白のテントから後藤が振りかざすランタンの光に元気付けられたという。
気温も下がり吹雪模様の中で一夜を過ごした 2 人は翌11日、 2 日がかりで “明大ルート” の積雪期登攀に成功する。途中のビバークは、想定内の行動だったようだ。
小国と人見は、明大山岳部の中では “岩壁の猛者” であった。しかし、人見は 2 年後の1938(昭和13)年 9 月24日、谷川岳のマチガ沢で墜落死亡する。
(「岳友たちの墓銘碑」参照)。日本を代表する岩壁に母校の名前のルートを刻んだ小国達雄、人見卯八郎の偉業は、100年史に残るレガシーである。