時代が昭和になると、北アルプスにおける積雪期の初登頂時代は幕を閉じ、バリエーション・ルートからの登頂や積雪期縦走が展開される。そこで積雪期の縦走や横断に各大学山岳部は鎬を削った。
明大山岳部でも1928(昭和 3 )年ごろから、白馬岳から唐松岳までの積雪期および厳冬期の縦走が計画され、29年 1 月、交野武一、赤星昌と人夫の櫻井が向かったが、強風雪のため白馬の県営小屋で引き返す。
翌30(昭和 5 )年 1 月、今度は交野、赤星、宍戸文太郎、白石義夫に人夫の丸山信忠を加えた一行が再度挑んだが、このときも冬山特有の強風雪に見舞われ、県営小屋で引き返さざるを得なかった。意を決した交野と宍戸は、 3 度目の縦走を決行するに至った。
登山概要
登山期間 | 1930( 昭和 5 ) 年 3 月17日~ 26日〈実動 5 日、停滞 5 日、計 10日間〉 |
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メンバー | 交野武一、宍戸文太郎、岩崎厳 以上 3 名 人夫=丸山信忠(細野) |
登山記録
一行は悪天候による停滞を覚悟して10日分の食糧を持ち、 3 月17日、猿倉小屋に入った。翌18日は好天となり、白馬頂上の小屋を目指し出発する。長走沢付近まで登ると、雪崩を予兆させる山鳴りがするため猿倉小屋へ引き返した。午後に白馬尻まで行ってみると、大きな表層雪崩の跡があった。19日は雲行きが悪く停滞、20日も雪降りとなり停滞する。
21日、天候が回復し決行となる。宍戸文太郎の報告「 3 月の白馬より唐松へ」から抜粋する――。
3 月21日 晴 同じく午前 3 時頃、天気はと見ると昨日の雪はすっかり降り止んで居る。晴れて居ると云うよりは晴れかかった天気だ。今日から天気が再び良くなってくる様な空だ。風も無い。皆んなの気持ちでも本日は何だか頂上の小舎まで行ける天気になりそうだ。かえってあまり朝から晴れ過ぎて居る日よりは、このくらいの天気の方が良くなると云うので、いよいよ各自荷物を作り、又各自の荷物を多少なりとも軽減する為、人夫一人(猿倉小舎番の高木)を増やす事にした。
4 時小舎を後にした。雪の状態は昨日降ったばかりの雪なので、スキーのアザラシも十分きく程度である。朧月と雪明かりとでラテルネの必要は感じない。皆無言のまま登行は続けられ、 6 時白馬尻に着いた。そろそろ東の方が明るくなって来た。うす暗い中から白馬の大雪渓を見上げると、何とも言えない様な気がする。
是れからは登りらしい登りになって行く。ラッセルも段々辛くなってくる。数度のキックターンを重ねて 9 時10分、大雪渓上まで来た。小舎を出た時は寒くて震えていたが、天気もすっかり良くなり西北の微風は 3 月らしい。良い天気なのですっかり汗をかいてしまった。
上を見ると小雪渓はますます急角度で直立して居る様に見える。丁度大雪渓の上に私達が着いた時、一人増した高木がいつに無く元気が無いので聞くと、足部に痙攣が起き、とても此れ以上同行は出来ないらしい。是れから雪渓も急になるし高木を返せば、各自今まででも相当に重いリュックが尚重くなる。併し痙攣するのを無理に伴ってくのも気の毒なので、止む無く高木を返す事にした。
高木と別れてから11時葱平に着いた。白馬大、小雪渓の中一番平らに近い場所である。此処にて昼食を取る。いよいよ小雪渓にかかるのだ。角度は急になるし表面が堅く、中の締まっている雪状の時、スキーを叩きつけながら登るよりは輪カンジキで爪先を蹴りながら登る方が、身動きが楽に出来るので、此処でスキーを輪カンジキに代える。
スキーは又リュックの上の荷となる。併し輪カンジキを余り履きつけない私達には、小雪渓の輪カンジキの登行は大分辛かった。12時小雪渓の上に着く。此の辺より雪状は益々堅くなり風のため積雪少なく、輪カンジキを再びシュタイグアイゼンに履き代えた。いよいよピオレも必要になって来た。私達は輪カンジキよりアイゼンの方がずっと楽に登行出来る。県営の小舎を過ぎ此の日の目的である頂上の小舎に着いたのは 1 時15分であった。
やがて小舎の西側の窓から入るべく掘出しに取りかかったが、小舎の西側は窓につまっている雪を取り去るぐらいの程度しか風のため積雪はないので、案外手軽に取去った。小舎の中は北側に少量の雪が入って居るぐらいで比較的完全な物である。少時小舎の中の掃除に費やす。
小舎から十分にして 4 時40分、白馬岳頂上に着いた。頂上の温度は当時マイナス13度であった。白馬岳頂上には大きな雪庇が東側に出来て居た。西側はほとんど山肌を露出して居た。此の日、夕刻の雲海は実にすばらしい物だった。そして本日の労を語り合い、明日の天気を祈りながら床に着いたのは 9 時だった。
〈CT〉猿倉小舎発(4:00)~白馬尻(6:00)~大雪渓上(9:10)~人夫1名帰す~葱平(11:00)~小雪渓上(12:00)~白馬山頂の小舎(13:15)~小舎発(16:30)~白馬頂上(16:40)~白馬山頂の小舎着(16:55)
ところが、22日から24日まで 3 日間、猛烈な西北の風となり停滞を余儀なくされる。24日やや回復し、縦走への足慣らしのため白馬岳から小蓮華山を往復、さらに三国境から雪倉岳を経由し朝日岳を往復、これからの縦走に備えた。そして、初縦走となるクライマックスを迎える。同じく宍戸の同文から抜粋する――。
3 月25日 晴 ねむい目をこすりながら起きて見ると、丸山が良い天気ですと云ふ。その言葉に皆大いにはりきる。外へ出て見ると、申し分ない天気だ。遠く剱、立山等の山々も朝霧の中に目を醒ました様に見える。なんだか馬鹿に良い気持ちの朝だ。西北の微風も実に気持ち良く肌に触る。近くは杓子岳、鑓ヶ岳等がはっきり見える。
小舎をすっかり片付けて、残火に注意して荷物を纏めて小舎を出たのは 8 時10分である。いよいよ白馬から唐松の小舎までのコースに着いた。白馬頂上の小舎から離山と杓子岳の鞍部(大雪渓上)まで約50分を費やす。是れから杓子岳の西側をまいて杓子岳の鞍部へ出た。
此処にて少憩する。杓子をまく時など実に 8 本足のアイゼンの有難さをしみじみ感じた。丸山は 3 本足のアイゼン故に、此処をまく時すべったが大事に至らず止まる。雪はすっかり締まっている。杓子の鞍部より尾根通し鑓ヶ岳の頂上(10時10分)に至った。
鑓を過ぎてからは広い雪稜の硬雪を踏締めながら、天狗の大下りの上まで尾根通しに行く。やがて私達は天狗の大下りに差し掛かった。注意しながら一歩一歩下って行くと、是を登ってくる 3 人に気がついた。近づくと丁度私達の逆コースを取った立教山岳部の一行なる事が解った。
猿倉の小舎を出てから他人に面接しなかった私達は、なんとなく嬉しくなった。そして昼食をすまし、立教の一行に別れを告げて再び大下りを下った。大下りの下、即ち前不帰の下に着いたのは 1 時だった。いよいよ不帰だ。岩と硬雪の嶮稜を登る。
一つのピークを越すと、いきなり私達の行手を遮る様に10米ぐらいの直立した岩頂が厳然と立って居る。とても此のピークのリッジを登る事は出来そうもない。手懸りになりそうな所すら無い。一寸信州側を見ると少しオーバーハングぎみになって居る。
岩場の途中に偃松の上から、それとも風に吹きつけられてか岩に雪塊がしがみついている様になって居る。その雪塊の上には、さっき会った立教の人の通った跡が有る。それで大分雪塊も崩れて、とても私達 4 人が通過する間、持ちこたえそうには見えない。併し越中側を見ると同じく直立して何物も無い。止む無く信州側の雪塊の上を横切る外には、なすべき途が無かった。
そこで丸山がザイルに堅く身を結び、一歩一歩進んで行く。私達は岩角を利用して丸山の為に確保して居た。やがて丸山は雪塊の上を横切って安全の場所に出て、偃松の根元にザイルの一端を結びつけて帰って来た。そしてザイルは一文字に頭の辺に張れた。そこで私、岩崎、交野の順でザイルを頼りに横切り、最後に丸山が再び身体にザイルを結んで、私達の確保によって無事に此の場所は横切る事が出来た。が若し、もう 2 , 3 名、人が多かったら其の雪塊は崩れてしまったのではないかと思う。
そして又、一寸行くと又しても直立した岩に直面した。岩は同じく 7 、 8 米位である。見ると今度の岩はリッジを登れば登れそうである。先ずザイルで身体を結んだ交野は、一歩一歩慎重にリッジを登り始めた。私達は岩角やピオレを雪面に刺して確保に努力した。やがて交野は岩の上に立った。上からザイルが下ろされた。まずリュックやスキーを先に上げ、岩崎、私、丸山の順で上からザイルで確保されながら登った。其処にて少憩を取る。テルモスの紅茶は実に美味かった。再び雪稜に出た。この場所が前不帰と奥不帰のギャップである。時間は 4 時45分であった。
雪稜を少し行くと奥不帰の取り付きに来た。此処には針金が下がっている。注意して一人一人づつ登った。それから暫くは少しづつ岩場も有ったが、やがて硬雪の雪稜が続いて、まず不帰の嶮も無事に通る事が出来たのだと思うと、一寸気が抜けた様になった。そして雪稜の尾根通しに唐松の頂上に着いたのは 6 時10分であった。
この唐松岳頂上に着く少し前に、私達は山で稀に見るウロアリング(ブロッケン現象)を見る事が出来た。自分達の影が直径 4 、 5 尺ばかりの虹中に大きく映し出されたのを。
6 時25分、八方の日電の小舎に着いた。四囲の山々の夕映えは実に壮麗であった。
今日は一日中、アイゼンを履き通したので大いに体もへばった。白馬岳から唐松岳へのコースは順当のコースでは無い。まして荷の有る場合は尚更である事を知る。
〈CT〉白馬頂上小舎(8:10)~離山と杓子岳の鞍部(9:00)~白馬鑓ヶ岳頂上(10:10)~昼食(11:30~11:50)~前不帰の下(13:00)~前不帰と奥不帰とのギャップ(16:45)~唐松岳頂上(18:10)~八方の小舎(18:25)
(1931年12月発行『炉辺』第 5 号より)
交野たち一行は八方小屋から細野に下山、積雪期の初縦走を成し遂げる。
この一文で興味深いのは、天狗の大下り付近で逆方向の唐松岳から白馬岳へ縦走してきた立大パーティとすれ違っていることである。このときの立大パーティは堀田弥一氏と奥平昌英氏に人夫の横川藤一を加えた 3 人パーティで、お互いのパーティは挨拶程度の言葉を交わすだけだったという。おそらくお互い積雪期の初縦走と知り、無言の下、火花が散っていたのではないだろうか。
交野は 7 年後の37(昭和12)年 2 月、社会人となって唐松岳に登った紀行文に「不帰岳の登りでは、立大パーティーが切ったステップに助けられ、苦労せずに済んだ」と述懐している。お互いが残したトレースは、明大・立大パーティの “競争の証” である一方、お互いの縦走を成功に導くアシストにもなったようだ。
この一文を読むと積雪期に登山する際、スキーで登れなくなればワカンに履き替え、雪面が硬くなればアイゼンにと、 3 つの用具を使い分けている。それにしてもスキーを外し、ザックに載せて縦走するときは、難儀な登降であったに違いない。リーダーを務めた交野は、このスキーを背負って縦走する苦しさを「不帰岳での登りでは、何回となしにスキーを谷に投げ捨てようと思った」と本音を吐露している。凍った斜面の登り下りは、重くて長いスキー板とストックは “無用の長物” になった。
この縦走の難所である前不帰の下の岩峰通過は、最大の核心部となる。最初の10mの岩峰はザイルをフィックスして通過、次の 7 、 8 mの岩峰はスタカットで確保しながらリッジ通しに乗り越えている。人夫の丸山信忠の働きもあったが、交野、宍戸の判断力とルート・ファインディングが功を奏したと言える。
この宍戸の文中に「ピオレ」という言葉が出てくる。この当時はドイツ語の「ピッケル(アイス・ピッケル)Eispickel」ではなく、フランス語の「ピオレPiolet」を使っているのは興味深い。
この時代の積雪期縦走は、まだ冬用テントはなく、山小屋を宿泊場所にして歩かなければならなかった。そのため積雪期の山小屋は雪に覆われ、入り口付近の雪を掘って中に入らなければならないという、難儀な時代であった。それだけに、天候の判断を誤れば小屋にたどり着けず、生死を分ける危険をはらんでいた。 4 人のメンバーシップが、積雪期初縦走を成功に導いたと言っても過言ではない。