特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

剱岳・八ッ峰初完登(1924)

 創部された1922(大正11)年になると、北アルプスの岩場や岩稜に挑むアルプス的登山が注目される。23(大正12)年7月、日本有数の岩稜である剱岳・八ッ峰に早大の舟田三郎、小笠原勇八、中林初太郎の3氏が挑んだが完登できなかった。同年8月、今度は学習院の岡部長量氏が案内人の佐伯宗作と挑み、八ッ峰の登攀に成功する。

 そうした中、剱岳に足繁く通っていた馬場忠三郎は、同じように八ッ峰に羨望の眼差しを向けていた。岡部氏が八ッ峰を登攀したと知った馬場は、気心を知る佐伯宗作に彼が八ッ峰を末端から登ったのか確認する。馬場は末端から登ってないと知ると、俄然、登高意欲を一気に燃え上がらせ、すでに登攀経験のある佐伯宗作と末端から八ッ峰完登を目指すことにした。

目次

登山概要

登山期間1924(大正13)年7月5日~11日〈6泊5日:実動3日〉
メンバー馬場忠三郎、案内人:佐伯宗作、人夫:佐伯善二

行動概要

7月5日
 上野を発った馬場忠三郎は6日朝、富山に着き芦峅寺に泊まる。翌日、弘法小屋に1泊した後、8日に室堂に入った。


7月9日
室堂(8:45)~雷鳥沢下(9:15)~別山乗越(10:00)~別山北平小屋(11:30)
午後:夏スキー練習及び「八ッ峯」登路研究


7月10日 快晴
別山北平小屋(6:00)~長次郎谷下(6:20)~八ッ峯第1峯・第2峯間の尾根(8:00)~八ッ峯第1峯(8:30)~第2峯(9:00)~第2・第3峯間尾根(9:45)~第3峯(10:00)~第4峯(10:35)~第5峯(10:50)~第6峯(11:40) 昼食~第6・第7峯間雪渓頭(12:45)~熊ノ岩(13:00)~小屋(14:30)


7月11日 快晴
小屋(6:00)~長次郎谷下(6:20)~熊ノ岩(7:45)~第6・第7峯間雪渓頭(8:20)~第7峯(9:00)~第8峯(9:25)~第9峯(9:45)~第10峯(10:30)~第11峯(八ッ峯頂上)(10:55)~最高峯右の峯(11:30) 昼食~第10・11峯間(13:00)~熊ノ岩(13:30)~長次郎谷下(13:40)~小屋

『八ツ峰』- 馬場忠三郎

『炉辺』第1号(1924年12月発行)に馬場忠三郎が寄稿した「八ッ峰」という記事から抜粋する――。

日本アルプス巨大な山波の中に、独り毅然と、黒金の山肌を表わして北方に覇者たる剱。それに登る鶴ヶ御前よりの尾根や三窓の尾根は、最早多くの登山者によって道すら出来るに至った。然し八ッ峰が、もてはやされるようになったのは最近のことである。そうして連なる鋸歯状の峯々は、如何に若いロッククライマーの胸を躍り立たすことであろう。

 「八ッ峯」思わず叫びたくなる、あの雪と険しい岩壁と闘って最高峰にしがみ付いた時の喜悦。ザイルに身を托して処女峯に胸をすりよせつつ、頂に積石した時の静かな幸福。八ッ峯は懐かしい。

真夏の陽はジリジリと照り付ける弥陀ヶ原の高原を過ぎ、シャツににじむ汗と烈しい雪の反射に悩まされつつ別山を越えた。ゾンメルシーは小さな波状雪の上をヒュッテを目指して飛ぶ様に走る。目前には鋭い岩のグラートはバイオレットに染みている。ヒュッテは未だ柱に屋根が張られたのみだ。自分は限りなく拡がった蒼空と魅力的な、気高い自然の芸術(タクミ)を仰ぎながら、その平和な愛すべき夕を過ごした。ヒュッテの夜、弦月は輝き、星五萬。大工は終日の労もいとはずホコラを作っている。明日は剱の頂にたてるのだ。

7 月10日 快晴 小屋を出たのは6時。長次郎谷を3、4丁登って右の雪渓に入り、朝の凍雪に一つ一つステップを刻み行く。大空にそそり立つ巨大な岩壁と沈黙した雪渓が、自分達に限りなく爽快さを与えてくれた。暫らくして岩に取り付いた。よい登路を辿って進む。滑らかな岩に靴釘をすべらせながら、上から垂れている這松の枝から枝へと手を移して登ったこともある。世の中の煩琑も社会の卑俗も、汚れた空気と共に谷の底に沈殿している。仰ぎ見れば澄明の空に第1峯が鎗そのものの形して陽光に輝いている。この辺は処女地だ。初めてネールの響きを感じた優しい黒百合は、頭を振って人間様を珍しそうに見詰めている。

 8時過ぎ第1峯の左の尾根に出た。風もない暖かい日だ。自分達は沈黙して鋭いリッジを見詰めていた。その峯々が自分等の烈しい熱情を増させる。そうして若いロッククライマーの度胸が、之れに打ち勝って行くのだ。鳥が何処よりか飛んで来た。宗作は鷲だと云う。この広い天地に翼を拡げて飛ぶ彼等が感ずる様な自由の悦を自分達も味わっているのだ。自分と宗作はザイルによって一つのものにされた。第1峯に向って懸命の登攀を開始。岩と這松に胸をすりよせて行く時間には、云い得ぬ快を感ぜずにはいられなかった。

 第 1 峯を次の峯へと向った。第2峯を辛うじて体を入れ得る岩の裂目を伝って下ると、足場が乏しい急な岩壁に出た。岩間に生えた小さな木の幹にザイルをかけて下る。第3、第4と頂の岩に積石されて行くのが何よりも嬉しかった。これ等の峯々の間にも多くの刻まれた小さな峯がある。第4 峯を少し下ると絶壁の上に出た。前年の岡部氏の捨綱は風雪にさらされて依然と残されている。下を見れば岩と雪との間が深く落ち込んでいる。岩角にザイルがかけられて自分、次に宗作と、身が托されて下る。雪の登り、それから岩の登りと繰返されて行く。僅か片手の5本の指にも急な岩角に一寸かかる数本のネールにも、互いに相手の生命が托されつつあるのだ。谷からの呼声に目をやれば剱の頂にホコラを建てて帰り行く福松や大工の一行だ。オーイとエコーがされて沈黙に帰ると、再び2人はリッジを四ツにはっていた。12時少し前、其の日の終りの峯に達した。すぐに平たい岩片を積み重ねた。そうして暫らく平和な憩いに時を過ごした。

 やがてザイルは固く結ばれ長次郎に続く雪渓に出て、重い歩みを進めてヒュッテに帰った。遠雷の音が次第に近づき、パラパラと夕立が過ぎて、冷気の中に岩は蒼ざめて夜の暗の中に消えて行く。小屋も次第に出来て、夜の寒さから自分達をかばってくれる。炉辺では顔をほてらせながら、大工連が今日の山の話しに笑い興じている。

 7 月11日 6時半、小屋を発つ。ゾンメルシーは朝の凍雪面をシュプールも残さず走る。長次郎谷の熊の岩を登り、スキーを置いて前日の滑った雪渓を登る。アイゼンの10本足が堅い雪に適当に食い込むのは何とも云えない。これを登り切って第6峯に取り付いた。今日も亦、風さえない恵まれた好天気だ。9時、6峯を越え体を結び合って進んだ。第7峯を下ると8峯との間が僅か離れて深く切り込んで、底は長次郎へと落ち込んでいる。ピッケルを向いの岩角につき、それに体重をかけて足を移して8峯へ取り付く。これこそ最後の峯。ただ自分の精神は頭上の頂に向って燃えつつあった。

11時、その最高峰に達した。蒼空に聳え立つ剱の頂。それから四囲の山々へと心行くばかり目をやった後、簡単な昼食を取った。そうしてこの峯の右にある峯を降り、八ッ峯にそって急な雪渓を2、3丁下ると、垂れ懸った様な峻峯がある。再びそれに向って登攀を始めた。暫らくの緊張した苦闘の後、2人は初めて頂に立ち得た。2人は頂の岩を積み重ね積石を作った。そうして、その傍らに腰を下して静かな勝利の快を享け入れた。

自分達も、この頂も、遠い山波も渓谷も、ただ沈黙している蒼空も、穏やかに天井を蔽っている。2人は静かに立ち上がって帰途に着いた。急な雪渓を少し降りてザイルは解かれた。そうして長次郎谷へと滑降して行った。刻まれた峯々は静かに黙している。八ッ峯は単なる言語を以て云い表わし得ない程、親わしい。そうして永い間、忘れられないものとなった。剱の下のあの小屋が5日間、自分達に与えてくれた素朴な歓待。厚い感謝を残して、この楽しい郷を出発して次の山へと向った。

あとがき

 1924(大正13)年7月9日、別山北平小屋(剱沢小屋)に入った馬場忠三郎は、ノコギリの歯のような八ッ峰を、岡部氏に同行した佐伯宗作とじっくりルートを観察、登り方を思案した。

 翌10日、馬場は案内人の宗作とザイルを結び、末端の第1峰から登攀を開始する。馬場の一文を読むと、第1峰付近は「処女地」と書いてあり、岡部氏が登ったのは途中の岩峰からだった。ギザギザのリッジと針のように尖った岩塔を何度も乗り越え、雲間を行く様子は、眩暈が起きそうな登攀であったことだろう。

 この馬場の一文に「八ッ峯にそって急な雪渓を2、3丁降ると、垂れ懸った様な峻峯がある」という記述がある。この “峻峯” こそ “クレオパトラ・ニードル” を指している。このクレオパトラ・ニードル初登攀は、山岳史に残る記録である。この当時、初めて目立った岩峰や山の頂に達したとき、石を積む(ケルン)という慣わしがあった。

 馬場の一文に「第3、第4と頂の岩に積石されて行くのが何よりも嬉しかった」とか、ニードルの頂に立った証として石を積み重ねた、とあるように、初めて登った証拠としてケルンを積むことは、この上ない喜びであったことだろう。

 こうして、初日は八ッ峰の第1峰から第5峰まで、2日目に第6峰から第8 峰までを登攀し、2日がかりでクレオパトラ・ニードルを含む急峻な八ツ峰を完登した。単独計画による八ッ峰登攀成功は、“明大に馬場あり” の名声とともに伝わり、創部間もない明大山岳部の評価を一躍高めることになった。

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