特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

信州側の大雪渓から積雪期白馬岳に初登頂(1924)

 1920年代に入ると学生登山界は、“スキーで雪山へ” という登山が主流となり、氷雪に閉ざされた高峰に挑んでいった。白馬連峰にもスキーを使って雪山に登る時代が到来する。

 妙高山麓・関温泉で旅館を経営し、スキーのベテランであった笹川速雄と富山師範学校の教諭・内山数雄の 2 人は、21年 3月31日、越中側の蓮華温泉から雪倉山麓をたどってスキーで登攀、途中 2 泊した後 4 月 2 日、旭岳を回って白馬岳の頂に立った。その後 2 人は山頂から大雪渓を白馬尻までスキーで滑降、積雪期における白馬岳初登頂に成功する。

 こうしたスキーによる積雪期登山が過熱する中、雪深い白馬岳は信州側からの登頂を拒み続けていた。積雪期初登頂から 3 年が過ぎた24年 4 月、明大の新井長平、馬場忠三郎、遠藤久三郎の 3 人に人夫を加えた一行は、雪に覆われる白馬岳に挑んだ。そして、信州側の大雪渓から積雪期の白馬岳初登頂に成功する。

目次

登山概要

登山期間1924( 大正13) 年 4 月16日~ 20日〈実動 4 日、停滞 1 日、計5 日間〉
メンバー新井長平、馬場忠三郎、遠藤久三郎 以上 3 名
北条村人夫:横沢房吉、横川庄次郎
計 5 名

行動概要

 4月16日に猿倉の小屋に入ったが雪で埋まり、探すのにひと苦労する。翌17日は霧と雨で停滞。18日は霧が晴れたので大雪渓の末端まで行き斜面を偵察すると、大小の雪崩の跡が両側の雪壁に見られ、注意して登高しなければと気を引き締めた。そして、白馬岳に登頂する19日が訪れる。馬場忠三郎が本学の「駿台新報」29号(1924年 5 月発行)に寄稿した「 4 月の白馬スキー登山」より紹介する――。

葱平まで

 翌19日、寒さのため目を覚ました。バックより頭を出せば、満月の光は入口より自分のバックを照らしている。枕下の時計を見れば 1 時半だ。再び眠ろうと努めたが無益だった。

  2 時半起床。直ちにバロメーターを見れば上っている。寒暖計は零下 3 度である。朝、昼 2 食分炊き、 4 時半朝食。昼食を飯盒につめて出発したのは 5 時半だった。

 太陽は照り始めた。雪は固く凍ってスキーでの登高は困難だ。皆はシュタイガイゼン(鉄カンジキ)を付けて行くことにした。スキーは強力に頼む。白馬温泉に行く道を少し登り、杓子岳の稜の下を真直ぐ横切って進んだ。

 45度程の斜面にシュタイガイゼンの 8 本の足が突き刺さって確実に止まる。靴の裏からは表面の凍雪が破れてサラサラと気持ちのよい音を立てて谷に落ちて行くのは何とも云えぬ。

  1 時間にして白馬尻に出、ここより千古消えない大雪渓だ。大きな雪崩が白馬杓子の尾根から落ちて登高の邪魔をしている。最近落ちたものである。その上を渡ったり避けたりしつつ急な傾斜面に小さな電光形の足跡を印しながら頂きへ向っての緊張した無言の登行。

 人間の歩行は何んと偉大なものであろう。白馬の信州側の斜面は東向きだ。雪は融けて足がもぐり始める。まだ雪崩の落ちる時間ではない。然し時間柄だから心配になる。若し落ちて来たら、この狭い谷では逃げることも不可能だ。死か。何の恐れることがあろう。山男は常に死を背に負ふて登高を試みるのだ。何の進めぬことがあろう。両側の斜面に注意を払いながら重い足を早めた。 8 時葱平の岩の現われて居る所に着いた。

山頂の幸福

 ここまで来れば一安心だ。休むことにした。人夫は 1 時間程遅れて大雪渓の真ん中だ。スキーを背負った 2 つの黒い姿が十字架の如く白雪の上に浮いて見える。何と清い十字架であろう。

 雪は段々に融けて来る。 3 人は強力のことを心配しながら谷を注目していた。幸いにも昨夜より今朝の寒さのため、雪は下まで凍っていたらしく、唯一の恐るべき雪崩にも遭わず 5 名は無事ここを通過して、杓子岳の肩上に向って歩を進めた。夏ならば優しく咲乱れている御花畑は、まだ鎖された冬だ。

10時少し、枯草の現われている所に腰を下して昼食をとった。飯盒の飯に生味噌だ。アパラートで雪を融かしてレモンティを作った。ティーを入れた湯は可愛らしい音を立てて沸騰した。これ等のすべてもアルピニストのみ味わい得る味だ。

 少しの休憩の後、再び自然との戦いが開始された。岩を攀り50度の雪面にピッケルでステップを切りながら進む。11時、雪庇を登って杓子の肩に出た。 3 人は喜び勇んで雪庇の上の尾根伝い、頂上目掛けて一直線に登った。然し、あまりの美に対して数度の美的観賞をせざるを得なかった。

 12時、頂上の小屋に着いた。 4 つの小屋は全部天井まで雪が入っていて戸も開かない。ここから頂上へは 5 丁(約550m)だ。風のために雪も吹き飛ばされて無い。人夫はまだ尾根の南斜面で遊んでいるらしい。30分すると登って来た。県営小屋の上をスキー・デポートとし、 5 名は無事絶頂に立った。12時40分だ。海抜9500尺。長き苦しい登高でアイゼンを付けし重き足も急に軽くなった。(中略) 5 名は無事を祝し合って頂上を後にした。

 小屋の傍で焚火をしながら 2 回目の昼食をし、 2 時間休憩した。

校歌を歌う

 2 時半、スキー・デポートに下り、スキーを穿き 3 人は、小雪渓の急斜面に美しいスラロームの波を交えながら、今迄積雪期に誰も滑走したことのないバージン・スノーのスロープに痛快なステムボーゲンとリフテッド、ステンミング、ターン。雪は水気の無い良好なザラメ雪。滑りの良いこと実に愉快な滑感を与へてくれる。

コースタイム

快晴 起床(3:00)~朝食(4:30)~猿倉小屋出発(5: 30)~白馬尻上(6:30)~葱平(8:00)強力を待って 1 時間休む~杓子花畑辺(9:20)昼食 1 時間半休む~杓子尾根~白馬小屋(11:50)30分休む、強力を待つ~白馬頂上(12:40)~白馬小屋(13:00)~小雪渓スキーデポート(14:30)~葱平(14:45) 1 時間半、陽の入るの待つ~白馬尻(16:40)~猿倉小屋着(17:35)》 

(コースタイムは1925年12月発行『炉辺』第 2 号の登山記録から添付した)

あとがき

 3 人の明大パーティは期待に胸ふくらませ 4 月14日、帝都を出発、翌15日に四ツ谷(現在の白馬村)に入る。四ツ谷で人夫を雇った 3 人は16日、四ツ谷から猿倉小屋に入った。ところが、17日は濃霧で視界が悪く停滞。翌18日は好天となったが、今後の悪天候を想定し 2 人の人夫をいったん下山させ、新たに食糧を荷揚げしてもらう。その間、 3 人は本番に備え大雪渓の雪の状態を調べるため白馬尻まで偵察し、猿倉小屋に引き返した。

 そして、積雪期の白馬岳に挑む行動は馬場忠三郎の一文にある通りで、白馬大雪渓を登り下りする際の雪崩対応には感心する。昼の12時40分、念願の白馬岳の頂上に立つ。猿倉小屋を出発して 7 時間、休憩時間を除くと 4 時間半で頂を極めたことになる。

 夕闇迫る 5 時35分、全員無事、猿倉小屋に帰り着き、12時間に及ぶ長い 1日が終わった。スキーとアイゼンを履き替えながら、大雪渓から白馬岳初登頂を成し遂げた。この馬場の一文に「バロメーター」という言葉がたびたび登場する。一行は天候を判断するため気圧計を持参していた。もちろん、当時はラジオからの天気予報などなかった時代で、積雪期の山に登る際、気圧計を持参し天候を予測したのだろう。当時の苦労が偲ばれる。

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