特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

明治大学マッキンリー登山隊(2011) – 明治大学創立130周年スポーツ記念事業・山岳部創部90周年記念

目次

明治大学マッキンリー登山隊(2011)

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活動期間2011(平成23)年5月〜6月
目的ウェスト・バットレス・ルートから北米大陸最高峰マッキンリー(6190m)登頂、並びに学生部員および若手OBの海外登山と高所登山の経験。
隊の構成隊長=三谷統一郎(昭和53年卒、55歳)
登攀隊長=三戸呂拓也(平成19年卒、26歳)隊員=川村雄太(同21年卒、24歳)部員=佐々木理人(4年、22歳、同24年卒)、小林雅章(2年、21歳、同25年卒)、宮津洸太郎(3年、21歳、同25年卒)、玉川翔(2年、22歳)

行動概要

5月26日

アンカレジからタルキートナに向かい、ここからセスナ機のエアー・タクシーで2200mのランディング・ポイント着。

5月27日

ランディング・ポイントからスノーシューでソリを引きながらカルヒトナ氷河を登り、2330m地点にC1設営。

5月28日

C1から急斜面を登り、クレバスに注意して進んだ2850m地点にC2設営。

5月29日

テント撤収後、スノーシュー、ハーネス、ザイルを着け出発。カヒルトナ・パス手前まで氷河を歩き、その後、ウィンディ・コーナーに向かって東に大きく曲がる。そこから最も傾斜のある斜面を登り、3350m地点にC3設営。

6月1日

2日間休養と荷揚げを行い、C3を撤収しウィンディ・コーナーの先へ進む。しばらく斜面をトラバースした後、平坦なルートを落石やクレバスに注意しながら進み、4350mのMC(メディカル・キャンプ)に入る。

6月5日

3日間の休養と最終キャンプへの荷揚げを行い、上部へ向かう。前日の降雪でラッセルを強いられながら稜線に出る。このころ風は弱いが降雪となる。第1岩峰、第2岩峰と進むにつれ稜線は細くなり、岩稜が露出するので慎重に登る。5250mにHC(ハイ・キャンプ)を建設。6月6日サブザックでアイゼン、ハーネス、ザイルを着け出発。デナリ・パスまでトラバースし、通過後はマッキンリー南峰へと続く稜線を進む。フットボール・フィールドにザックを固定し、空身で急な雪面を登り頂上稜線に出る。頂上まではほかの登山者とすれ違いながら進み、午後7時近く、全員頂上に到達。下山に入ると小林と玉川の調子が悪く、ヘリコプターでピックアップされる。

6月9日

ランディング・ポイントに下山後、セスナ機でタルキートナに戻る。ここで小林、玉川と合流。

62年ぶりに挑んだマッキンリーへの想い

 2011年は大学創立130周年を迎え、また、翌12(平成24)年は、山岳部創部90周年を迎える記念の年となった。MACと炉辺会は10年前の「ドリーム・プロジェクト」の後継として、「ポスト・ドリーム・プロジェクト」をプランしなければならなかった。しかし、当時は就職難や転職の厳しさ、さらに長期休暇取得の難しさなどから、若手OBのマンパワー不足は否めない状況にあった。そこで海外登山委員会で諸々検討した結果、学生部員を主体に比較的短期間で登れる山としてマッキンリー(現・デナリ)が浮上した。その背景には、戦後初めての海外遠征で挑んだ山であり、また、植村直己会員が消息を絶った、鎮魂の山でもあることから、学生が挑むにふさわしい山と捉えたからだった。

 この「明治大学マッキンリー登山隊」は、いわば学生部員の“海外合宿”となり、95(同7)年、ガングスタンに挑んだ「明治大学体育会山岳部インド・ヒマラヤ登山隊」から16年ぶりの、学生主体の登山隊となる。ただし、ガングスタンのように学生自らによる“ボトム・アップ型”ではなく、炉辺会からの“トップ・ダウン型”となって計画された。なおかつ計画には若手OBの登山も組み込まれたことから、登山隊名に敢えて“山岳部”の文字は表記されなかった。

大学のスポーツ記念事業となったマッキンリー登山

 本学は創立130周年のスポーツ記念事業として、体育会に所属する各クラブに学生部員が参加し、体験できる事業プランを募集した。そこで10(同22)年夏から炉辺会長の節田重節、海外登山委員会委員長の三谷統一郎、山岳部監督の山本宗彦、海外登山担当理事の三戸呂拓也が中心となり、マッキンリー計画の打合せを重ねた。その結果、登山プランは2年生以上の7名程度とし、ウェスト・バットレスのルートから登頂するのは3・4年生に限定、2年生は4200mもしくは5200mのキャンプまでの荷揚げとした。ただし、天候と体調が良好の場合のみ登頂に挑む計画となった。この計画は11月の理事会で承認され、次いで山岳部のコーチ会でも了承され、大学側に申請した。

 結果、マッキンリー登山計画は大学の130周年スポーツ記念事業に決まり、炉辺会の節田会長は「来るべき山岳部創部100周年に向けて、次代を担うべき若い才能を育成する第一歩として、このマッキンリー登山を位置づけたい」と登山隊を送り出した。

初めて体験する高所登山

 マッキンリーの登山口タルキートナで、レンジャーからオリエンテーションを受けた。安全登山と自然環境保護の話を聞き、山は登るだけでなく、山という自然をいかに守るかを教えられる機会となった。オリエンテーションの後、ランディング・ポイントまでフライトの待ち時間があったので、植村直己会員の慰霊碑を訪ね、全員で手を合わせた。

 学生隊員5名は、初めて見るスケールの大きい氷河やクレバスに驚き、また4000m以上の標高で体験する高度障害に苦しみながら、先輩OBたちと全員で北米大陸最高峰の頂に立った。しかし、残念ながら2年生2名が下山途中、急性高山病になりヘリコプターで搬送されるトラブルが起きた。隊長を務めた三谷統一郎は、2年生2名がヘリコプターで搬送されたことに、隊長としての判断ミスと事故の責任を重く受け止め、登攀隊長の三戸呂拓也は、「自分の足で下山するという、登頂よりも大切なことが果たせず成功とは言えない」と厳しく律した。

 この明治大学マッキンリー登山隊は、消息を絶った先輩の終焉の地を、後輩たちが悪戦苦闘しながら登り、27年ぶりに北米大陸最高峰と向き合う登山となった。この登頂から4年後の15(同27)年、ピークの正式名称はマッキンリーから、地元先住民の言葉で“偉大なるもの”、“大いなるもの”を意味する「デナリ」に変更された。

参考文献
  • 『炉辺』第10号(2012年6月発行)「51年ぶりにマッキンリー全員登頂」
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