明治大学アンナプルナⅠ峰偵察隊(2002)
活動期間 | 2002(平成14)年10月〜11月 |
---|---|
目的 | アンナプルナⅠ峰(8091m)南面の偵察。 |
隊の構成 | 隊長=高橋和弘(平成8年卒、28歳) 隊員=大窪三恵(同8年卒、30歳)、森章一(同10年卒、27歳)、加藤慶信(同10年卒、27歳)、天野和明(同12年卒、25歳) 以上5名 |
行動概要
ローツェ登山終了後、高橋、森、加藤、天野の4名に、日中チョー・オユー女子友好登山隊に参加した大窪三恵が加わり、アンナプルナⅠ峰の偵察に向かう。アンナプルナ氷河内院から英国隊ルートと南壁を偵察、また、アイスフォール中段の5300mまで試登した。その結果、南壁ルートは技術的に困難ではあっても、登れる可能性は十分ある、との感触を得る。そして、何よりも致命的な雪崩に遭遇する危険性が少なく、南壁の方が確実性と可能性が高いと、手応えを持って11月15日、帰国する。
明治大学アンナプルナⅠ峰登山隊(2003)
活動期間 | 2003(平成15)年3月〜5月 |
---|---|
目的 | 南壁英国ルートよりアンナプルナⅠ峰(8091m)登頂、8000m峰14座の完登。 |
隊の構成 | 総隊長=平野眞市(昭和36年卒、65歳) 隊長=山本篤(同61年卒、40歳)登攀隊長=高橋和弘(平成8年卒、29歳)隊員=大窪三恵(同8年卒、30歳)、早川敦(同9年卒、29歳)、森章一(同10年卒、28歳)、加藤慶信(同10年卒、27歳)、天野和明(同12年卒、26歳)、松本浩(同15年卒、23歳) 医師=志賀尚子撮影隊員=中村進以上11名 |
行動概要
モディ・コーラ奥のアンナプルナ内院・標高4200mのモレーンにBC建設。
クレバスに注意しながら氷河上を進み、5000mのC1予定地に到達。翌日から荷揚げ開始。
5000mにC1建設。翌日から2日間で14ピッチのロープを固定、6000mのC2までルート工作完了。
早川、加藤、松本のパーティがC2へ荷揚げしていたとき、雪崩が3人を襲い10mほど流されたが、幸い埋まることなくケガもしなかった。
6000mにC2建設。翌14日から上部ルート工作に向かうと、ルートは急な雪壁からルンゼ、そして再び雪壁となる。
10ピッチのロープを固定し、6500mに達する。最終到達地点に装備をデポし、C2へ戻る。翌17日は降雪のため隊員はC2で停滞。トレース付けのため上部へ向かったシェルパ2名から「6ピッチ目のロープが下に垂れ下がり、その先が見えない」との交信が入る。
ルート確認のため上部へ向うと、6ピッチ目のロープは雪崩で切断され、アンカーも抜けていたが、ほかは損傷なくデポ品も無事だった。ルート工作を継続し、6800mのC3予定地に到達。この後、いったんBCに戻りメンバー・チェンジ。
6800mにC3建設。C3入りした高橋、森、天野の3名は上部へルート工作開始、6950mのロックバンド下まで4ピッチのロープを固定。翌26日から核心部のフラット・アイロンに踏み入り、標高7100m付近の三角雪田上部まで5ピッチをロープ固定。
大きく天候が崩れ、全隊員BCに一時撤退。29日まで雪が降り続く。
行動を再開したが翌2日、再び悪天につかまり、C1入りメンバーは足止めを喰う。3日、上部へ向かったが降雪激しく、各キャンプ間で雪崩が頻発し、再びBCへの下降を余儀なくされる。
いよいよアタック・ステージに入り、第2次隊の山本、加藤、松本とシェルパが先行してC1へ向かう。C1のテントは支柱が折れ、壊滅状態であった。
C2へ向かうと、一面真っ白な雪原が広がっているだけで、テントの姿は跡形もなく消えていた。辺りを懸命に掘ると3m下にテントの天井が現れ、丸2日間かけて掘り出し、C2を再建。
2次隊を追ってC2入りした高橋、森、天野の第1次アタック隊3名は、半月ぶりにC3入りする。
1次隊3名は前回の最高到達地点から再びロックバンドのルート工作を開始。2ピッチのロープを延ばすと、そこがフラット・アイロンの基部となる。傾斜が急で、ホールドも乏しいルートをたどる。さらにチムニーを詰めてフラット・アイロンを突破、7400mのC4予定地に荷物をデポし、C3へ帰幕。
松本を除いた6名がC4予定地に着くと、急なリッジ状の斜面で平らなスペースがなく、テント1張分のスペースを切り崩しC4設営。高橋、森、天野のルート工作隊はさらに上部へ向かい、クーロワール7600mまでロープを固定し、C4に戻る。4人用テントに6名が泊まる。
午前3時過ぎ、山本、高橋、早川、森、加藤、天野の6名がC4を出発。難関のミニ・ロックバンドを抜けて稜線に出る。そこから細い雪稜を進み午後2時40分、6名がアンナプルナⅠ峰に登頂。一方、C3からシェルパ2名も登頂する。その後、隊員たちはC3へ下降、シェルパ2名はC2へ下る。
C3、C2、C1を撤去し、BCに集結。
BCを撤収し、登山活動を終える。
“夢の頂”アンナプルナⅠ峰へ
連日の降雪や雪崩に苦しみながらルート工作、荷揚げを繰返し、さらに核心部のフラット・アイロンの岩壁を突破、5月15日、7400mの最終キャンプ地(C4)に着く。斜面をピッケルで削り、畳1枚ほどのスペースに4人用のテントを張ったが、3分の1は空中に出っ張り、まるで宙に浮くようなC4となる。好天は明日までしか持たない予報なので分散アタックを取りやめ、全員で頂上を目指すことにした。6名が4人用テントに入ったためシュラフは使えず、膝を抱えて寝なければならないビバーク状態で一夜を明かす。
翌16日、2人1組のザイル・パーティで向うことになり、午前3時過ぎ森・天野パーティが出発、続いて高橋・早川、最後に山本・加藤のパーティがC4から頂を目指した。C4を出発して1時間ほどでクーロワールを抜け、ガリーの入り口に着く。ここで先行の森・天野ペアが狭いガリーにロープを固定し、チョックストーン手前から右に巻いて、続くガリーを登り詰める。次第に狭くなる窪みを天野がトップで抜けると、眼前に傾斜の落ちた雪の斜面が広がり、ミニ・ロックバンドの上部に出る。ルートは雪の斜面からナイフエッジとなり、ようやく見えてきた頂上は、雪稜の遥か奥に座していた。
傾斜はないが、かなり細いルートを加藤がトップで行く。雪稜は頂上直下で大きな斜面となり、森がトップに代り2ピッチ目は天野がリード、そして、3ピッチ目は加藤が再びトップで行く。歩いてはうずくまることを繰り返した後、加藤は一気に稜線に飛び出した。
下で待っている仲間たちのためスノーバーを打ち込んで最後のロープを固定、やがて隊員たちが稜線に上がる。強風の中、皆で一番高い所を探す。西の端近くまで稜線を辿たどった加藤が、最初に8091mの頂を踏んだ。無酸素でのアタックで11時間余りを要したが、頂上に立った6人に、アンナプルナの女神は微笑んだ。
「ドリーム・プロジェクト」の3隊に全て参加したのは高橋和弘、森章一、加藤慶信、天野和明の4人で、いずれも8000m峰4座に登頂する活躍を示した。個人で全座完登する時代に“複数の人間が寄ってたかって”という批判もあろう。しかし、この計画は個人で成し遂げた記録と比較するものでもなく、また、ほかの登山団体やチームと競争してやってきたものでもない。このプロジェクトは、8000mの頂に登った足跡を一つ一つ積み重ねてきた結果の集大成であり、明大山岳部という団体が33年という歳月をかけ、数多くのOBや部員たちが成し遂げてきた証そのものである。
なお、付記するなら明治大学アンナプルナⅠ峰登山隊に「2003年度日本スポーツ賞」(主催:読売新聞社)の競技団体別の山岳部門で「最優秀賞」が、また、8000m峰14座完登に対し「2003植村直己冒険賞」の「特別賞」が授与された。
- 『山岳』第98年(2003年12月発行)高橋和弘「明治大学アンナプルナⅠ峰登山隊2003報告」
- 谷山宏典著『登頂8000メートル』(山と溪谷社、2005年8月発行)
- 『炉辺』第10号(2012年6月発行)山本篤「アンナプルナ登山を振り返って」