特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

明治大学ローツェ登山隊(2002) – 明治大学創立120周年・山岳部創部80周年記念

目次

ローツェ登山隊

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活動期間2002(平成14)年9月〜10月
目的西壁のローツェ・フェースからローツェ(8516m)登頂。
隊の構成総隊長=平野眞市(炉辺会会長、昭和36年卒、63歳)
隊長=三谷統一郎(同53年卒、46歳)
登攀隊長=高橋和弘(平成8年卒、28歳)隊員=加藤慶信(同10年卒、26歳)、森章一(同10年卒、27歳)、天野和明(同12年卒、25歳)、松本浩(4年、22歳、同15年卒)
医師=ダルマ・ラジャ・シュレスタ(ネパール人)以上8名

行動概要

9月1日

ゴラクシェップ(5150m)から入り、クーンブ氷河上5350mにBC建設。

9月8日

エベレスト側から雪崩が発生、C1予定地のデポの一部が流される。

9月10日

アイスフォールを抜けたウェスタン・クウム上の6000mにC1建設。高橋、加藤、森とシェルパが入る。C1から起伏のある斜面を行くと氷河歩きとなり、C2予定地に全員で荷揚げ。

9月14日

6450mにC2建設。高橋らはC3を偵察、ルートはウェスタン・クウムからローツェ・フェースに入り、C2から14ピッチをフィックス工作。

9月22日

7200mにC3建設。

9月23日

標高7750mのC4予定地に到達したが、翌24日から悪天候となり、28日まで停滞。天候の回復後に荷揚げ再開。

10月2日

7750mにC4建設、第1次アタック隊の高橋、森、加藤とシェルパのラクパ・リタの4名が入り、アタック態勢完了。この日、高橋とラクパは無酸素で上部のクーロワール入り口まで13ピッチをフィックスし、C4に帰幕。

10月3日

第1次アタック隊の4名は午前4時にC4を出発、フィックスに導かれ1時間40分後、クーロワール入り口に着く。緊張を強いられる。クーロワールの斜面を登り、9時20分に加藤、続いてほか3名もローツェに登頂。

10月7日

第2次アタック隊の三谷、天野、松本とシェルパがC4に入る。

10月8日

第2次隊の天野は無酸素で深夜0時にC4を出発するが、クーロワール入り口付近でチリ雪崩に遭い、いったんC4へ戻る。三谷と松本、シェルパのパルデンは午前3時出発予定であったが、風が強く天気待ちする。4名は朝7時15分過ぎからC4を出発、12時35分に三谷と松本が登頂。少し遅れて天野が無酸素で、続いてパルデンも登頂し、全員登頂を果たす。

10月9日

C4に泊まった第2次隊の隊員はじめC3、C2滞在の隊員は、キャンプを撤収しBCに集結、登山活動を終える。

10月14日

BCを撤収して帰路キャラバンを開始し、ペリチェに下る。

10月15日

タンボチェ僧院にて登山終了のお礼と95(平成7)年、パンガで雪崩により亡くなった炉辺会の先輩の追悼を行う。

アンナプルナⅠ峰とのセットからローツェ単独計画へ

 2000(平成12)年1月15日に開かれた第2回海外登山委員会でローツェ遠征が検討され、ローツェ単独は魅力に乏しく、エベレストとセットにする案が出た。しかし、エベレストは一度失敗した西稜ルートを採用すると厳しくなり、ローツェとアンナプルナⅠ峰のセット案に落ち着く。当初の登山隊名は「明治大学ローツェ・アンナプルナⅠ峰登山隊2002」となり、ローツェ隊は隊長以下10名、アンナプルナⅠ峰隊は隊長以下5名で編成、初めにローツェに挑み、その後、アンナプルナⅠ峰に転進する計画であった。

 ところが、02(同14)年2月のミーティングで大幅な計画変更が決まる。アンナプルナⅠ峰の過去の記録を調べた結果、秋季のアンナプルナ北面は雪崩の危険が高く、北面をルートに採るならば、雪の少ない春季が有利と分かる。また、雪崩の危険が少ない南壁ルートも候補に上がり、事前に偵察する必要性に迫られた。その結果、ローツェとアンナプルナⅠ峰を分離させ、ローツェは02年秋に予定通り実施、アンナプルナⅠ峰は1年遅らせ、翌03(同15)年春に派遣することに変更する。そこでローツェ登山終了後、高橋和弘以下3、4名でアンナプルナ南壁を偵察することにした。

“夢のタスキ”をアンカーにつないだローツェ登山隊

 10月2日にC4を建設、第1次アタック隊の高橋、加藤、森とシェルパ1名の4名が入り、アタック態勢が完了する。翌3日午前4時、満天の星空が一面に広がる中、第1次隊4名はC4を出発する。前日にクーロワール入り口まで張ったフィックス・ロープを伝い、上を目指した。クーロワール内はクラストした急斜面で、一気に高度を稼ぐ。やがて空が広くなり、最後の急斜面にロープをフィックスし、稜線に出ると目の前に頂上があった。世界第4位の狭いピークに、午前9時30分までに4名が登頂する。

 第2次アタックの8日、強風がやまずC4で待機しながら翌日にアタックを延期すべきかと頭の中をよぎったが、翌日の好天は期待できないと、午前7時過ぎから4名は出発する。天野は「自分の限界を試したい」と敢えて無酸素にこだわった。8250mで指先がしびれ、さらに8300mで目の奥がしびれ、視界が少し狭くなる。それでも自分の心臓と肺で8500mの空気を吸いたいと、一歩一歩ファイナル・ピークを目指した。三谷と松本は昼の12時35分に登頂、少し遅れて天野が無酸素で、やがてシェルパもローツェの頂に立った。目の前にそびえる世界最高峰エベレストに向かい、学生隊員の松本は、自分の手でMACの部旗を高々と掲げた。

ローツェに挑んだ、それぞれの想い

 このローツェ登山隊には、ガングスタン海外合宿メンバーの高橋、加藤と森の3人が参加。また、高橋が隊長を務めたガッシャーブルムⅠ・Ⅱ登山隊メンバーからは同じく加藤、森に加え天野が馳せ参じた。その意味で高橋が登攀隊長を務めたローツェ隊は、彼の“教え子”たちが中心メンバーとなって活躍した。

 今回、無酸素登頂にこだわった天野和明は、クライミングには創造性がなければならないと常々心掛けていた。ガッシャーブルムⅠ峰、Ⅱ峰に次いで3度目の8000m峰となるローツェは、敢えて無酸素で挑んだ。また、先輩たちとともに山岳部から現役部員の松本浩(4年)が参加した。実はこのときの山岳部は、部員不足で存続の危機を招いていた。ガッシャーブルム登山隊が派遣された01年度は、その前年に4年生が卒業していなくなり、2年生が全て退部、さらに新入部員はゼロとなり、3年部員の松本浩と佐々木拓麿の2人だけという、まさに風前の灯だった。そうした中、ローツェ登山隊が派遣された02(同14)年度は、4年生になる松本と佐々木の2人に、1年生4名が入部、わずか6名の変則態勢となる。

 炉辺会が「ドリーム・プロジェクト」という華やかな海外遠征を展開している最中、母体のMACは存亡の危機という、皮肉にも明暗が分かれる事態になっていた。主将の松本は自分が登頂した姿を見せれば、部員たちを励まし、新入部員の退部を少しでも食い止められると、人一倍頑張ったのかもしれない。この登山隊で登攀隊長を務めた高橋和弘が学生時代に歩んだ苦難の道を、後輩の松本浩もまた歩むことになるという、数奇な運命がその背景にはあったのである。

 こうしてローツェ登山隊はBC以上での登山期間が44日間にも及び、悪天候に見舞われながらも13座目の8000m峰に全員登頂を果たした。かくて「ドリーム・プロジェクト」はアンナプルナⅠ峰を残すだけとなり、14座完登に王手を掛けた。

参考文献
  • 谷山宏典著『登頂8000メートル』(山と溪谷社、2005年8月発行)
  • 『炉辺』第10号(2012年6月発行)三谷統一郎「ローツェ登山を終えて」
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