ガッシャーブルムⅠ・Ⅱ峰登山隊
活動期間 | 2001(平成13)年6月〜8月 |
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目的 | ジャパニーズ・クーロワール・ルートからガッシャーブルムⅠ峰(GⅠ=8068m)、南西稜からガッシャーブルムⅡ峰(GⅡ=8035m)の連続登頂。 |
隊の構成 | 隊長=高橋和弘(平成8年卒、27歳) 副隊長=早川敦(同9年卒、27歳) 隊員=加藤慶信(同10年卒、25歳)、森章一(同10年卒、26歳)、天野和明(同12年卒、24歳)、谷山宏典(同13年卒、22歳) 医師=大森薫雄(68歳:慈恵医大山岳部OB) 以上7名 |
行動概要
南ガッシャーブルム氷河5100mにBC建設。
本格的な登山活動開始、雪崩の危険が少ないGⅡから挑む。BC上のアイスフォールに無数のクレバスがあり、突破するのに丸4日を要した。
ガッシャーブルムⅠ峰西稜末端6000mにC1建設。
天候が悪化し、3日間停滞。
GⅡ南西稜に取り付く。ルート工作し、2日間でC2予定地に達する。その後C2への荷揚げおよびC3予定地へルート工作。7月2日C3へのルート工作で、予定地まで200mに迫ったところで悪天周期に入り、全員BCに下り休養。
6500mのC2へダイレクトに入る。翌8日は高橋、加藤でC3へ
ルート工作、残り4名で追っ掛けボッカ。
吹雪の中、7400mのC3に入る。
午前3時にC3を出発、6時30分に高橋と加藤がガッシャーブルムⅡ峰に登頂。その後、8時までの間に全員登頂を果たす。
BCに帰幕。休養と悪天候でBC滞在。
ガッシャーブルムⅠ峰に向け登攀開始。1日で北面6400mのC2予定地を偵察、翌21日は全員でC2へ荷揚げ。
北面6400mにC2建設。
高橋、加藤、森、谷山でC3へ荷揚げ。7100mの予定地に到達すると同時に天気が崩れ、吹雪の中を下降。翌24日、BCに下る。このころより悪天候の支配率が高まり、停滞は8月1日まで続く。
好天周期を待ってアタック・ステージに入る。
午前1時40分、C3を出発。しかし、徐々に雲が湧き始め、上部クーロワールを抜け7600mに達するころにホワイトアウトになる。態勢を建て直すべく、その日のうちにBCまで退く。
天候の回復を待って再度アタックのためC2に入る。この後、悪天候に変わりC2で4日間停滞。
ようやく好天となり、これがラストチャンスと全員C3に入り、アタック態勢を完了。
午前1時、C3を出発。順調に高度を稼ぎ、6時30分、8000m地点に達する。頂上に通じる最後の氷壁に3ピッチのロープを固定、頂上稜線に抜け午前7時40分、ガッシャーブルムⅠ峰に全員登頂する。C3に帰幕するころには雲が頂上を覆い、C2に着くと悪天候に変っていた。
BCに帰着。翌15日に加藤、森、天野の3名でC1から荷下げを行い、全ての登山活動を終える。
BC撤収、ゴンドコロ峠を越え、フーシェを経てスカルドに着く。
「ドリーム・プロジェクト」へのプロローグ
マナスル登山隊に参加した高橋和弘は、当時、炉辺会長の平野眞市に「2001年に、炉辺会員がまだ登っていないガッシャーブルムⅠ峰とⅡ峰に若手で遠征したい」と申し出る。すでに高橋は、北面のジャパニーズ・クーロワール・ルートからのガッシャーブルムⅠ峰と、Ⅱ峰は南西稜のノーマル・ルートからと、登頂最優先のプランを持っていた。
そのころ平野は、3年後の2002(平成14)年に創部80周年を迎えることから、何か大きなプロジェクトができないか模索していた。99年6月4日に開かれた理事会で末松誠理事長は、01年に大学創立120周年、02年には山岳部創部80周年を迎えるので、99年度を記念事業のスタートの年にしたいと表明、海外担当理事の三谷統一郎に海外遠征のマスター・プラン作成を依頼する。2ヶ月余り過ぎた8月29日、平野会長、末松理事長、橋本清監督、三谷理事を含め11名が出席し、海外登山委員会が開かれた。冒頭、三谷理事から8つのプランが提案された――。
- ローツェ・シャールからローツェの間が未踏で、さらにエベレストへの縦走
- 炉辺会員による8000m全山(14座)登頂
- 7大陸最高峰の全山登頂
- 未踏のルートより7000m、8000m峰への登頂
- 初登頂を目指す6000m、7000m峰
- 冬期登頂を目指す7000m、8000m峰
- 過去に炉辺会員が入ったことがない地域の登山
- アルパイン・スタイル、無酸素、単独登攀
この時点で、8000m峰14座完登は2番手のプランであった。この海外登山委員会で高橋和弘のガッシャーブルム計画は進めることにし、三谷プランについて話し合った。その中で14座完登は“百名山”的にやると登山の本質からかけ離れるのではないか、また、単発的に計画するのではなく、10年から先の将来を見据えて遠征計画を作るべきではないか、さらにこれだけ遠征隊を出すと資金繰りが心配になる、などの意見が出された。ただ14座を目指す場合のローツェとアンナプルナⅠ峰は前向きに検討し、02年にこだわらない可能性を探ることにした。
年が明けた2000(同12)年1月15日、第2回の海外登山委員会が開かれ、テーマは8000m峰14座にこだわるかどうかに絞られた。出席したOBからガッシャーブルムの成果によって計画が左右され、仮に失敗したら再度ガッシャーブルムに遠征隊を出すのか、また、単純なローツェ登山は魅力に乏しく、エベレストとセットにしたらどうか、さらにエベレストとセットにした場合、ノーマル・ルートより失敗している西稜を選ぶと厳しい登山になる、など様々な意見が出された。その結果、エベレストとローツェのセットではなく、ローツェとアンナプルナⅠ峰をセットにし、登頂できなかったピークは今後の課題にするとの合意に達し、8000m峰14座の完登を目指すことになった。
77日間に及ぶ苦闘で勝ち取った8000m峰連続登頂
8000m峰14座完登の“第一幕”となるガッシャーブルムⅠ峰・Ⅱ峰登山隊は、ガングスタン海外合宿メンバーが中心だった。6名の登山隊員のうち高橋隊長を含む4名が名を連ね、平均年齢25歳という若い登山隊となる。
21世紀を迎えた01年5月、パキスタンのイスラマバードに入った。6月2日、標高5100mのベースキャンプ(BC)に集結する。初めに雪崩の危険が少ないガッシャーブルムⅡ峰(GⅡ)にノーマル・ルートの南西稜から挑んだ。
7月10日午前3時過ぎ、7400mのC3を出発、頂上に向かう。そして、午前6時30分という早い時間に高橋、加藤が頂上に立ち、その後、次々と登頂を果たした。
その後、悪天候に阻まれて停滞が続き、登山開始から70日を超えようとしていた。ようやく好天周期を迎え、後半戦のアタック・ステージに入る。
8月13日は奇跡的に快晴となり、予定通り午前1時、アタックに出発する。朝6時30分、8000m地点に到着、頂上に通じる最後の氷雪壁に3ピッチほどロープを固定し、頂上稜線に抜け出る。7時40分、登山開始より73日目にしてようやくGⅠに全員登頂を果たす。まさに全隊員が粘りに粘って勝ち取った、8000m峰の連続登頂だった。
このガッシャーブルム登山隊は、大学創立120周年、山岳部創部80周年という2枚看板を掲げた「ドリーム・プロジェクト」のトップバッターとして、炉辺会員がまだ登っていない2つの8000m峰に連続登頂するという課題を背負っていた。それだけに、登頂に成功するか失敗するかによって、その後の8000m峰ローツェとアンナプルナⅠ峰に及ぼす影響は大きく、「ドリーム・プロジェクト」の成否を左右する鍵を握っていた。
それでも高橋隊長以下若い隊員たちは、プレッシャーを若い力ではねのけ、一挙に2つの8000m峰の頂に全員が立った。結果、14座完登の目標に大きく近づくことになる。
- 『山岳』第97年(2002年12月発行)高橋和弘「ガッシャーブルムⅠ峰・Ⅱ峰連続登頂の報告」
- 谷山宏典『登頂8000メートル』(山と溪谷社、2005年8月発行)
- 『炉辺』第10号(2012年6月発行)高橋和弘「どこまでやれるか、挑戦の連続」