明治大学インド・ヒマラヤ登山隊(1999)
活動期間 | 1999(平成11)年8月〜9月 |
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目的 | ガングスタンの西南西にある未踏峰ナンガール・チョティ(6094m)の初登頂。 |
隊の構成 | 隊長=早川敦(平成9年卒、25歳) 隊員=加藤慶信(同10年卒、23歳)、森章一(同10年卒、24歳) 顧問=加藤博二(昭和35年卒) |
行動概要
モレーンの末端4000mにBC建設。翌日から登山活動開始。
モレーン上にルートをとり、4900mにC1建設。
氷河上のクレバスを避けながら進み、5200mに最終キャンプC2を設営、アタック態勢を完了。しかし、天候は悪化の兆しを見せ、岩稜が続く南稜は岩がむき出しのため諦め、北峰から東側に延びる東稜にルートを変更。
ルートを東稜からC2のあるプラトーに向かって落ちるリッジと懸垂氷河の間の雪壁にとり、11ピッチのフィックス・ロープを張り、再度アタック態勢に入る。しかし、翌日は悪天候で停滞。
3名はアンザイレンして出発。途中で天気が悪化し、ツェルトをかぶって待機したが回復の兆しはなく、C2へ引き返す。31日は悪天候で停滞。
夜、2度目のアタックに出発。ルート工作の最高到達点から1ピッチほどフィックス・ロープを張り、そこから4ピッチのスタカットで稜線に抜ける。しかし、稜線は北側に大きく雪庇が張り出し、嫌らしいトラバースを強いられる。スタカットで時間を費やし午前10時、北峰手前の標高6000m地点で断念。
BCに戻り荷物の整理、梱包。
BCを撤収、帰路キャラバン開始。
カプセル法で再びインド・ヒマラヤへ
2年前の97(平成9)年、炉辺会から久方ぶりにマナスル登山隊が派遣され、8000m峰に全員登頂した。しかし、早川敦と森章一の2人は、諸事情で登山隊に参加できなかった。マナスル登山が終わったころから先輩の早川を中心に、卒業して2、3年の若手OBが集まり、少数精鋭でヒマラヤに挑戦しようと盛り上がる。
早川は学生時代の95(同7)年、インド・ヒマラヤのガングスタン(6162m)に登ったとき眺めたナンガール・チョティの印象が忘れられなかった。この山は少数パーティで登るにふさわしいと、プラン作成に取り掛かる。
早川の計画に参集したのが森と加藤慶信で、3人とも学生時代にガングスタンへ登った仲間で、そのとき早川は3年部員、加藤と森は2年部員であった。3人は年の差も気にしないメンバーで、学生時代に戻ったように遠征準備に勤しんだ。こうして「明治大学インド・ヒマラヤ登山隊」が編成され、8月2日、登山隊メンバーにOBの加藤博二を加えた4名は、インドに向け出発した。
登頂断念も、清々しい気持ちで下山
第1キャンプ(C1)、最終の第2キャンプ(C2)までは天候にも恵まれ、ルートを延ばすことができた。ところが、次第に悪天候に見舞われる日が多くなる。さらに岩が剥き出しとなり、ルートの判別に時間がかかった。結果、頂上まで岩稜が続く南稜を諦め、ガングスタン方面に延びる東稜に変更する。そして、8月27日までルート工作を終え、アタック態勢となる。
29日のアタックは途中で天候が悪化し断念、翌日からも悪天候が続き停滞。天気の回復を待って9月1日の夜、再度のアタックに出発する。このルートは日中、陽が当たると落石の危険があり、夜中に出発する方が危険を回避できると考えた。ところが、稜線に抜け出ると、想定していたルートに誤算が生じる。下から眺めた稜線はなだらかそうに見えたが、北側は大きな雪庇が連続して張り出し、その都度のトラバースで時間のかかるルートであった。また、C2から小さく見えていた北峰は、間近で見ると大きな岩が露出し、取り付くことが難しかった。さらに北峰を越えたとしても、持参した装備では下降を考えるとリスクが大きいと判断、9月2日の午前10時、ファイナル・ピークからまだ1㎞も離れた北峰手前の、標高約6000mの地点でアタックを断念する。
下山は全員疲労が激しく、危険地帯も多く、フィックス・ロープは回収せずC2へと下る。翌3日、3名は重い荷物を背負って一気にBCへ下り、登山活動を終えた。早川隊長は、「目標の頂に立てなかったのは悔しかったが、自分たちで企画し、良き仲間とザイルを結び、未知の領域を自分たちの力で切り拓き、6000mまで達したことに清々しい気持ちを持った」と振り返った。
20世紀最後を締めくくる海外遠征は、無念の撤退で幕を閉じた。しかし、早川敦、森章一、加藤慶信の積極果敢な“パイオニア・スピリッツ”は、来るべき21世紀の新たなチャレンジに挑む大きなマンパワーとなる。
- 報告書『インド・ヒマラヤ登山隊1999報告書』(2000年3月発行)
- 『炉辺』第10号(2012年6月発行)早川敦「荒々しい山頂、いつの日にか登ろう―明治大学インド・ヒマラヤ登山隊1999―」