特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

明治大学マナスル登山隊(1997)

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明治大学マナスル登山隊1997

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活動期間1997(平成9)年9月〜10月
目的北東面初登ルート(北東稜)から世界第8位の高峰マナスル(8163m)登頂。
隊の構成総隊長=大塚博美(昭和23年卒、72歳)
隊長=三谷統一郎(同53年卒、41歳)
登攀隊長=山本篤(同61年卒、34歳)
隊員=原田暁之(平成2年卒、32歳)、廣瀬学(同2年卒、30歳)、高橋和弘(同8年卒、23歳)、豊嶋匡明(同9年卒、22歳)、関裕一(4年、22歳、同10年卒)、加藤慶信(4年、21歳、同10年卒)

行動概要

9月5日

ブリ・ガンダキ上流ケルモ・カルカ上部5000mのBCに集結。

9月14日

雪崩の危険がない黒岩上5800mにC1建設。

9月19日

広い雪原に出た所の6350mにC2建設。ここからマナスル北峰(7157m)の裾に沿いノース・コルに向かう。

9月23日

ノース・コル上6900mにC3建設。ここから上部プラトー北端に登る。

9月26日

C4予定地に荷揚げ完了、全員BCへ下り休養。ところが、10月3日まで悪天候が続き、一度C1に入った第1次アタック隊は、再度BCに戻る。

10月6日

上部プラトー北端の平坦地7500mにC4建設。C4、C3に隊員が入り、アタック態勢が整う。

10月8日

1日停滞の後、第1次アタック隊の三谷、山本篤、高橋、豊嶋、加藤の5名とサーダーが9時50分登頂。寒気が厳しくコルまで下る。休憩後トレースに従ってC4に下り、ここで個人装備を回収しC1まで下る。途中でフィックス・ロープを掘り出しながら登って来る2次隊とすれ違う。

10月9日

第2次アタック隊の原田、廣瀬、関の3名とシェルパ2名は9時15分登頂。その後C4を撤収しC3へ下る。途中、前日アタックしたスロバキア隊の1人がフィックス・ロープで死亡しているのを発見。天気が悪くなりC3泊まり。

10月10日

第2次隊はC3よりBCに下り、全員BCに集合。

10月11日

C1を撤収、BCより上での行動を終える。BCは大雪となり、残っていたほかの登山隊は登山を中止し、下山する。

10月13日

BCを撤収、帰路キャラバンを開始。

それぞれの熱き想いが交差しマナスルへ

 96年に入ると、「MACで8000m峰に登ろう」と機運が盛り上がる。三谷統一郎は前年の95(平成7)年秋に、カトマンズ・クラブ登山隊の一員としてマナスルに挑んだが、7350m付近で撤退を余儀なくされ、心の片隅にわだかまりがくすぶっていた。そこに山本篤から「明治でマナスルをやりましょう」と持ち掛けられ、三谷はリベンジに燃えた。さらに「マナスル」という山は、炉辺会の重鎮・大塚博美が明大OBとして初めてヒマラヤに足を踏み入れ、登頂ルートを切り拓きながら頂上に立てなかった“無念の山”であった。こうして炉辺会の大塚、三谷の2人が果たせなかったマナスルが、初の8000m峰制覇の舞台として大きくクローズ・アップされた。

この当時、炉辺会では91年のチョモランマ峰以降5年間、本格的な登山隊は派遣されていなかった。しかし、95年に学生の海外合宿がガングスタンで成功を収め、MACおよび炉辺会は、久し振りに“上げ潮ムード”となった。そこに三谷と山本篤の熱い想いが重なり、遠征隊派遣の機運が芽生えた。当初、三谷は8000m峰で登りやすい山は、世界第6位の高峰チョー・オユー(8201m)と考えていたが、炉辺会の実力に合っているのはマナスルと判断、“オール明治”の登山隊が久方ぶりに動き出す。

悲願の“オール明治”で8000m峰制覇へ

 このマナスル計画ではアルパイン・スタイルや無酸素登頂、シェルパ・レス等も検討されたが、三谷はセフティファーストで確実な登頂を最優先に、あまり縛りをつけないタクティクスで臨むことにした。それはアンナプルナ南峰以来、18年間の登頂空白を埋めることが先決と考えたからだ。

 この遠征で検討されたのが、現役学生を登山隊に参加させるかどうかで、OBの中から賛否両論が出た。登頂を最優先に考えると、できれば学生部員を隊員から外したいという意見。一方、コーチを担当しているOBからは「学生が参加してこその大学の登山隊ではないか」とか、「部生活と遠征が両立できるのか」など様々な意見が出された。結果、若手の育成を目的に参加させることが賢明と、4年生になる関裕一と加藤慶信の2人が隊員に決定する。登山隊の編成はOB6名、学生2名の計8名となる。

 10月8日は無風快晴の絶好のアタック日和となる。第1次アタック隊の三谷隊長、山本篤、高橋、豊嶋、加藤の5名は早朝5時に出発する。ところが、前日の降雪が影響し、標高8000m付近で膝上から腰ぐらいのラッセルに苦しめられる。それでもトップを交代しながら、体力勝負で乗り越えて行く。ラッセルを終えると頂上は目前となり、最後の不安定な細い雪稜は左右にスッパリ切れ落ち、3ピッチのロープを固定、そのリッジの先のマナスル頂上に9時50分登頂する。

 翌9日の第2次アタック隊の廣瀬、原田、関の3名は朝5時に出発、前日のトレースをたどり9時15分、頂に立ち全員登頂を果たす。このうちの加藤、関の2人は、現役学生として初めて8000m峰のサミッターとなり、まさに会心のアタックとなった。

マナスル登頂から21世紀の“夢の扉”を開く


 登頂したマナスルは未踏峰でもなく、ルートもノーマル・ルートからで登山の評価は分かれるが、明大隊単独として創部75年にして念願の8000m峰初登頂であり、一つの通過点とも言うべき記録となる。昭和40(1965)年に初めて7000m峰に成功したゴジュンバ・カン遠征から8000m峰制覇まで、実に32年もの歳月を要したことになる。遅きに失した感もあるが、これまで挑んだ数々の遠征の敗北を乗り越え、“泥くさく前に”という明大気質を物語っている。

 このマナスル登山隊には2年前の95年、海外学生合宿ガングスタンに参加した高橋和弘、加藤慶信、関裕一の3名が参加、また、日本山岳会青年部K2登山隊で登頂できなかった豊嶋匡明も馳せ参じた。まさに“オール明治”の若いエネルギーが、全面に溢れる登山となった。それは、マナスルで“MACの絆”を再認識できた平成卒業の隊員たちにとって、次なる高い目標に向かって進む道しるべとなる。

 このマナスル登頂で、明大山岳部OBおよび学生による8000m峰の登頂は10座目を数えた。残る8000m峰は4座となり、この未踏の4座に向けて若い世代から熱き想いがたぎり、21世紀の“夢の扉”を開く大きなプロジェクトにつながっていった。

参考文献
  • 『山岳』第93年(1998年12月発行)三谷統一郎「マナスル北東面初登ルートよりの登頂〜明治大学マナスル登山隊1997年の記録」
  • 報告書「明治大学マナスル・アンナプルナⅠ峰登山隊報告書」(1999年4月発行)
  • 谷山宏典著『登頂8000メートル』(山と溪谷社、2005年8月発行)
  • 『炉辺』第10号(2012年6月発行)谷山宏典「MAC隊として初の8000m峰登頂」
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