インド・ヒマラヤ登山隊
活動期間 | 1995(平成7)年8月〜9月 |
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目的 | 海外合宿の一環として、インド・ヒマラヤのガングスタン(6162m)登頂。 |
隊の構成 | 総隊長=小疇尚(山岳部長、60歳) 隊長=高橋和弘(4年、21歳、平成8年卒) 部員=大窪三恵(4年、21歳、同8年卒)、早川敦(3年、20歳、同9年卒)、加藤慶信(2年、19歳、同10年卒)、関裕一(2年、20歳、同10年卒)、森章一(2年、20歳、同10年卒)、古川雅浩(2年) OB=大川邦治(コーチ、26歳、同2年卒)、高柳昌央(コーチ、24歳、同5年卒) |
行動概要
ビリング・ナラ4200mにBC設営。
ガングスタン氷河末端の4650mにABC建設。
アイスフォールと岩稜の間のルンゼを登り、下部雪原5200mにC1建設。
アイスフォール帯をルート工作し、60度の雪壁を登って5600mにC2建設。高橋、早川、加藤と高柳OBがC2入りし、アタック態勢完了。しかし、翌日は朝から雪で、雪崩の危険があるためアタックを中止、停滞。
第1次アタック隊の4名はC2を出発。やがて視界が悪くなり、頂稜6000m地点でホワイトアウトとなり、ツェルトをかぶり天気待ちする。10時過ぎに視界が開け上部に向かう。20度から30度のナイフエッジを通過、さらに核心部の30度から40度の雪壁を問題なく通過し、午前11時45分、ガングスタンの頂上に立つ。
前日にメンバー・チェンジを行い、第2次アタック隊の大窪、関、森、古川と大川OBの5名は天気待ちの後、C2を出発。途中、視界の悪化もあったがときどき晴れ間も広がり、14時、ガングスタンの頂に立ち全員登頂を果たす。
フィックスを回収しながら全員ABCに集合、撤収作業に入る。
ドン底の山岳部を再起させて主将の熱き想い
92(平成4)年4月、8人の1年生が入部したとき、山岳部はわずか2人の4年生がいるだけで、風前の灯だった。なおかつ山岳部は、利尻山遭難で行方不明の染矢浄志を捜索する活動が長期化し、半年間の活動自粛状態にあった。そのため夏山や冬山合宿ができない状況となり、こうした山岳部に見切りをつけ1年部員が次から次へと退部、結局残ったのは高橋和弘と大窪三恵の2人だけとなる。
2人が2年部員になったとき、3・4年生はゼロ。いきなり最上級生となり、2人だけで新人勧誘を行うという危機的状況だった。この年に新人6名が入り、1・2年生だけの総勢8名となる。部生活および合宿において、4・3・2年生の役割を、2人の2年生が一手にこなさなければならず、全く余裕のない1年となる。
利尻山遭難以降、沈滞する部活動に直面した主将の高橋は、MACを発展的に再建するにはどうしたらいいか思案した。これから3年間で部を立て直し、4年になった暁には、何か大きなことをやろうと胸に秘める。“大きなこと”のアイディアとしては、厳冬期の黒部横断とか、それこそ厳冬期の利尻山再挑戦など、国内で可能なプランが頭に浮かんだ。しかし、高橋はMACの完全復活をヒマラヤで遂げたいと決心する。もっとも、海外遠征が実現できるかどうか、まだ半信半疑の気持ちで一杯だった。
93年度の夏山合宿を前に、主将の高橋は海外遠征の経験豊富な斎藤伸監督に、「これから3年間の長期計画を立て、95年に学生のみの海外登山をやりたい」と胸の内を明かす。突拍子もない話に、監督の斎藤は驚きを隠せなかったという。斎藤は「本気でやりたいと考えているなら、やってみろ」と好意的な言葉を高橋に送った。この言葉に励まされ、高橋の胸の奥で「学生だけの海外登山が、実現するかもしれない」と期待感がみなぎった。
こうした高橋主将の固い信念を悟った斎藤監督は、計画を理事会に提案する。7月の理事会で検討した結果、学生のみの“遠征”という捉え方でなく、“合宿”として行うべきだという方向に傾き、かつての「剱岳5ヶ年計画」のように「MAC海外合宿・長期計画」として了承された。部員減少で危機感を共有する炉辺会の理事会は、何か具体的なアクションを求めていた。そこで学生の海外合宿に懸け、炉辺会も全面的にバックアップすることになる。
学生海外合宿に向け、高橋主将の孤軍奮闘
94年の年明けから本格的な準備作業に取り掛かった。登山は学生が長期間休める夏休みの8月から9月の実施と決め、目標とする山の選定に入った。夏のモンスーンの影響が少ない場所を条件に、パミール、カラコルム、インド・ヒマラヤなどが候補に挙がる。その中から登山期間が1ヶ月程度で、お
金の掛からないインド・ヒマラヤに決める。2月に入ったある日、高橋は日本山岳会東海支部の海外登山報告書の表紙にある1枚の写真に目を止めた。それは美しい三角形の雪峰で、名前はガングスタン、標高6162m。ひと目見て「登りたい!」と胸が高鳴る山容であった。
4月を迎え94年度は4年生がゼロ、3年生は高橋と大窪、2年生は4名残り、新人が5名入り、合計11名と久々に2桁の部員数となった。4月15日にガングスタンの仮登山申請を出すと、4月30日付で仮許可が下り、いよいよ海外合宿実現に向け部員の士気は高まった。そうした中、南アルプス縦走の夏山合宿で1年生1名が転倒事故、続いて3年生1名がスリップ事故を起こしてしまう。こうした夏山事故を重く受け止めた理事会は、翌年の海外合宿実施に疑問を投げ掛けた。最終的に「海外合宿を実施するかしないかは、冬富士、冬山、春山合宿の成果が80%以上であれば実施、それ以下であれば中止」とコーチ会から厳しい判断が下された。高橋と大窪は冬富士、冬山合宿を終え、平成6年度を締めくくる春山合宿に全力投球した。コーチ会は春山合宿の成果を評価、炉辺会の理事会にも諮り、ついに海外合宿へのゴーサインが出された。ただし、現役学生だけでは不安もあるので、コーチの大川邦治と高柳昌央を付き添い役として同行させることにした。
このメンバーで、いつの日か8000m峰へ
高橋はこれまでの研究や情報収集を元に、登攀ルートは45(昭和20)年、イタリア隊が南面のビリング谷からガングスタン氷河を詰め、南西稜に出て初登頂したルートを採ることにした。そして、部を牽引してきた高橋と大窪の2人にとって最終学年となる95年度を迎える。山岳部は10年ぶりに4学年が揃う年となり、久々に部室に活気がみなぎった。
7月27日、山岳部主将の高橋和弘が隊長を務める明大山岳部7名の現役部員たちは、OB2人とともにインドに向け出発する。8月16日、4650mのキャンプ(ABC)に集結、18日から全員初めてのヒマラヤに向け登山活動を開始する。体調不良を来たす部員もいたが順調にルートを延ばし、28日の第1次アタックで高橋隊長、早川、加藤と高柳OBが登頂、30日に第2次アタック隊の大窪、関、森、古川と大川OBがファイナル・ピークに立った。まさにドン底の山岳部を牽引してきた2人は、5名の部員たちとともにガングスタンの頂に立った。そして、高橋の胸に「いつの日かガングスタンのメンバーで8000m峰に挑みたい」と新たな夢が宿った。
- 報告書『海外合宿報告書インド・ヒマラヤガングスタン峰(6162m)』(1996年発行)
- 『炉辺』第10号(2012年6月発行)高橋和弘「ガングスタン遠征報告」