特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

明治大学チョモランマ峰遠征隊(1989-1991) – 明治大学創立110周年記念

目次

明治大学チョモランマ東面偵察隊(1989)

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活動期間1989(平成元)年9月〜10月
目的チョモランマ東壁登攀に関して、カルタ経由ベースキャンプまで物資輸送するキャラバン・ルートの調査および東壁登攀ルートの研究。
隊の構成隊長=中尾正武(昭和28年卒、57歳)隊員=平野眞市(同36年卒、50歳)、坂本文男(同42年卒、46歳)、根深誠(同45年卒、41歳)、廣瀬学(4年、23歳、平成2年卒)

行動概要

9月20日〜21日

北京滞在。中国登山協会首脳メンバーと打ち合わせ。

9月24日〜25日

ラサ滞在。チベット登山協会と打ち合わせ。

10月1日

キャラバン開始。

10月13日

メンド〜サッチャ〜ラブ

10月14日

ラブ〜カルタ

10月15日

カルタ〜シガール

10月16日

シガール〜シガツェ

10月17日

シガツェ〜ラサ

明治大学チョモランマ峰遠征隊(1991)

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活動期間1991(平成3)年4月〜5月
目的未踏の東壁カンシュン・リッジよりチョモランマ(8848m)登頂。
隊の構成隊長=平野眞市(昭和36年卒、52歳)
副隊長=坂本文男(同42年卒、47歳)
登攀隊長=長谷川良典(同44年卒、44歳)
隊員=斎藤伸(同56年卒、33歳)、松村定樹(同57年卒、32歳)、中澤暢美(同62年卒、28歳)、佐野哲也(平成2年卒、23歳)、廣瀬学(同2年卒、24歳)
医師=竹口甲三(41歳)、撮影=青田浩(31歳)以上10名

行動概要

4月10日

ガルブの仮ベースに到着。

4月14日

カンシュン・リッジ末端の氷河湖畔5400mにBC建設。17日より登山開始。

4月21日

岩稜を越えた台型ピーク下の雪の斜面を削り、5900mに仮C1建設。

4月30日

氷塊とクレバスの続く複雑なルートを抜け、唯一広々とした馬の背状の台地6100mにC1建設。

5月1日

目前にそびえる急なピークへ向けてルート工作。しかし、リッジ上に連なる氷やブロックが崩壊する危険性が高まる。

5月4日

長谷川と斎藤はピークの頂上わずか手前の標高6400mを最高到達点としてBCに下山する。この後、BCでミーティングを行い、ルート上の危険が余りにも多く、この先も見通しが立たず、日数的にも登頂は無理と判断。

5月6日

登山中止を決定、C1を撤収。

5月16日

BCを撤収、帰路キャラバンへ。

再び世界最高峰への気運盛り上がる

 81(昭和56)年の大学創立100周年記念事業のエベレスト遠征で持てる力を使い果たし、その後、しばらく炉辺会は遠征隊を派遣することはなかった。エベレストから6年が過ぎた87(同62)年春、山岳部総会の席上で数人の若いOBから「そろそろ炉辺会で総力を上げて何か大きな遠征をやりたいね」と盛り上がる。そうしたとき、翌88(同63)年、日本山岳会が派遣する日本・中国・ネパール3国によるチョモランマ・サガルマタ友好登山隊に、炉辺会から8名のOBが参加することになる。これに呼応するかのように、誰言うともなく中国側の未踏ルートからチョモランマに挑んでみたいという気運が芽生える。その発端には、81年のエベレストでやり残したわずかの差を埋めたいという気持ちと、できることなら中国側からリベンジしたいという想いが込められていた。

 87年の夏から中国登山協会と折衝を始め、翌年にかけ手紙や電話で連絡を取り合うものの進展は見られなかった。そこで平野眞市と橋本清の2人は翌88年11月、北京に飛び、中国登山協会に“1990(平成2)年春”の登山許可を申請する。この“1990年”は大学創立110周年に当たるので、記念事業となる年を選んだ。そのとき、中国側は当時唯一空いている東壁(カンシュン・フェース)ならば許可するとなり、その場で議定書を取り交わし、90年春のチョモランマ峰の正式許可を受け取る。帰国後、長谷川良典はじめ数人と相談した結果、どうせやるなら未知の東面にチャレンジしたいとなり、早速、中国側へ連絡、東壁ルートからの許可を取り付けた。登攀ルートは偵察隊を派遣してから決めることにした。

中国国内で暴動発生、本隊派遣を1年延期

 キャラバン・ルートの調査および東面のルートを調べる目的で偵察隊を送り出そうとした矢先、チベットの首都ラサで暴動発生のニュースが伝わる。さらに6月4日には、北京の天安門広場でデモ隊に人民解放軍が突入するという流血の惨事まで起きてしまう。

 こうした中国国内の情勢が最悪の事態となったので大学側とも協議、本隊を1年延期し1991年春に実施すべし、という結論に至る。8月に入ると中国の情勢は落ち着きを見せ、沈静化に向かう。折しも中国登山協会の副主席・許競氏が来日、8月14日、炉辺会長の大塚博美、中尾正武理事長、そして、海外登山担当理事の河野照行が許競氏と会談、その年の秋に偵察隊派遣の了承を求めたところ、好意的な返事で偵察隊派遣の運びとなる。

偵察の成果上がらず、本隊に影響

 中尾理事長を隊長とする平野眞市、坂本文男、根深誠、廣瀬学の5名から成る偵察隊は、9月19日、慌ただしく日本を発ち北京に向かった。チョモランマ東面に入ったのはこれまで3隊しかなく、最奥の集落カルタからベースキャンプまではほとんど知られていなかった。こうした未開の場所だけに偵察隊は様々なトラブルに巻き込まれる。

 10月9日、偵察隊4名とヤク人夫2人は、ヤク4頭を連れベースキャンプ予定地に入る。翌10日からカンシュン・フェースの偵察をと思ったところ、朝から雪模様となり、ヤク人夫は帰ると言い出した。引き止めることができず、やむなくオブカへ引返さざるを得なかった。その結果、わずかにキャラバン・ルートを知り得たのみで、これが本隊に大きな影響を及ぼすことになる。

カンシュン・リッジから再び最高峰へ

 チョモランマ東壁には当時、2本のルートが踏破されていた。アメリカ隊が正面の巨大なバットレスから南峰へ突き上げるルートに成功、また、国際合同隊はサウス・コルへ直接突き上げる雪壁をたどり、頂上に立った。ほかに可能性があるルートは東北東稜に突き上げるカンシュン・リッジで、このルートは距離が長く、下部は岩と氷がミックスしたナイフエッジで、さらに8000mを超えるとピナクル群があり、難易度は超一級と評された。実り少なかった偵察責任者の平野は、登頂の可能性が高い「国際合同隊ルート」を採ると発表、基本計画の作成に入った。ところが、夏に入ると定例の準備会に顔出すOBが少なくなり、盛り上がりに陰りが見え始める。その背景には、参加メンバーから「国際合同隊ルートは雪崩の危険があり、登りたくない」という悲観的な意見が相次いだからだった。その結果、遠征隊派遣そのものが危ぶまれるようなピンチとなる。急遽、全体会議を開き、未踏ルートで手つかずの魅力があるカンシュン・リッジが大勢を占め、一本化が図られた。実に計画発端から足掛け5年、チョモランマ峰遠征隊はようやく中国の奥地へと向かうことになる。

想像絶する難ルートに苦渋の進言

 4月17日から上部へのルート工作に入り、いよいよチョモランマの未踏ルートに第一歩を印す。リッジ末端近くの側斜面を登り、大きく脆い岩がゴロゴロするリッジ上に出る。5700m地点から左へトラバースし、1本のリッジ上に出てフィックス・ロープを張る。そこから最初の氷雪壁を抜け、スノーキャップに這い上がる。21日、不安定で大きなキノコ雪が連続するルートでピッチは上がらず、台型ピーク下の雪の斜面を削り、5900m地点に仮C1を設けた。ここから先は経験豊富なシェルパたちも尻込みして行きたがらず、泊まるのは明大隊員のみで、各2名の3パーティが入り、交代しながらルート工作を続けた。

 ルートは厳しさを増し、巨大なキノコ雪を避けながら脆い岩稜をたどる。25日、ヒマラヤ襞の氷壁を登り、氷塊とクレバスの続く複雑なルートを抜ける。30日、唯一広々とした馬の背状の台地6100mに達し、第1キャンプ(C1)を建設する。実にルート工作を始めて14日目のことだった。翌日はC1上の急な氷壁を登り、さらに細いルンゼに入って6400mの小ピークに挑む。崩れると分かるブロックの上にも立たざるを得なく、両側は1000m近くスッパリと切れ落ちる、際どいルートとなる。佐野が乗った大きなブロックが崩壊したときは一瞬駄目かと思ったが、幸い軽傷で済んだ。

 こうした氷のブロック崩壊の危険度が高まる中、5月4日、長谷川と斎藤は小ピーク頂上直下のギャップに阻まれ、標高6400mを最高到達点としてBCへ下山する。登攀隊長の長谷川は苦悩の末、平野隊長に撤退を進言、隊長は登山中止を決定する。長谷川が語った、「勝つあてのない試合を打たれ続けながら、それでも立っているボクサーにタオルを投げるのは、トレーナーとしての義務であろう」という言葉が胸に突き刺さる。

参考文献
  • 『山岳』第86年(1991年12月発行)平野眞市「チョモランマ峰カンシュン・リッジ」
  • 『炉辺』第9号(1996年11月発行)平野眞市「チョモランマ峰(カンシュン・リッジ)遠征隊報告」
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