特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

明治大学カラコルム登山隊(1987)

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カラコルム登山隊

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活動期間1987(昭和62)年5月〜7月
目的ミナピン氷河より東峰を経て東稜からラカポシ(7788m)登頂。
隊の構成隊長=山本宗彦(昭和57年卒、27歳)
隊員=山本篤(同61年卒、24歳)、大西宏(同61年卒、24歳)以上3名

行動概要

5月24日

ラカポシの山懐、タガファリ3510mにBC建設。26日から登山開始。

6月5日

尾根に出る直前の広いプラトー4450mにC1を建設。

6月12日

東稜上の5200mにC2建設。

6月27日

セラック帯を越えたピナクル基部5800mにC3建設。

7月1日

ピナクルからナイフエッジの核心部を越えた6200mにC4建設。この先を目指したが、ルート・ファインディングに悩まされる尾根で先へ進めず、しかもフィックス・ロープが6700mで尽きてしまった。

7月3日

緩やかな雪稜をたどり10時45分、東峰(7010m)の頂に立ったが、その先はロープなしでは無理と判断、登山続行を断念する。

沈滞期に灯った“小さな明かり”

 81(昭和56)年の本学創立100周年記念事業のエベレスト登山から5年が過ぎ、自前の遠征隊派遣の話題も出ず、若手OBの間には遣り場のない失望感と欲求不満が溜まっていた。そうした中で、中堅、若手OBは日本山岳会をはじめ地元の登山隊などに参加、ヒマラヤへ挑み続けていた。コーチとして部員を指導する山本宗彦は、炉辺会の現状を打開する海外遠征ができないかと思案した。

 86(同61)年、居酒屋で後輩たちと海外の山に行こうと盛り上がる。どこでもいいから行きたいと思う者、7500m以上の山に挑みたい者、さらには未踏峰か未踏ルートにチャレンジしたい者など、それぞれの想いを語り合った。こうした後輩たちの強い願望を知った山本宗彦は、早速、計画に取り組む。当初、全ての条件を満たす山として、バルトロ氷河の奥にそびえる世界第12位のブロード・ピーク(8051m)に未踏の南稜から無酸素、全員登頂を目標に、若いOB5名で編成する計画をまとめる。この計画は10月の理事会で正式の遠征隊として認められ、理事会もバックアップすることになる。山本宗彦は自ら立案した計画で、遠征が実現する手応えを実感する。かつて威厳を誇った海外登山委員会の姿は影を潜め、登山隊の意向を尊重する姿勢に変わったことは大きな変化であった。その意味では、山本宗彦たちのカラコルム計画は、ポスト・エベレストの登山にスイッチを入れる役割を果たした。

少人数のカプセル・スタイルでラカポシに転進

 当初6名の隊で編成したが、仕事や休暇の関係で1人欠け、2人抜けしていくうちに8000m峰の未踏ルートは無理となり、ポピュラーなノーマル・ルート(西稜)に変更せざるを得なくなる。そこへ追い打ちを掛けるように、12月になってパキスタン大使館から「第1希望のブロード・ピークは9隊ものラッシュで許可できず、第2希望のラカポシに変更してほしい」と連絡が入る。まさに青天の霹靂であったが、8000m峰に行けなくなったという未練はなく、隊員の数も減ったので、躊躇なくラカポシに転進することにした。ラカポシ計画への最終参加者は、前年春に卒業したばかりの山本篤と大西宏の2人だけとなったが、山本宗彦は敢えて未踏の東稜ルートから挑むことにした。このルートは85年オーストリア隊がアルパイン・スタイルで東峰まで達したが、正確な資料はなかった。山本宗彦はラカポシからディランへ延びる主稜線の東峰から、北稜と並行する東稜を登攀ルートとした。この尾根は頂上までかなり長く、雪面が多いと想定され、主稜線にベタ張りする目的でフィックス・ロープを5000m用意した。また、少人数のため隊を分散させる極地法ではなく、1つ上のキャンプまでルート工作した後、上部キャンプへ荷揚げ終了した段階でキャンプを建設、そこに全員が入る「カプセル・スタイル」を採用した。

ナイフエッジとキノコ雪の難ルート

 登山活動は1日休養した5月26日から開始する。標高4450mの第1キャンプ(C1)のすぐ上がナイフエッジとなり、ロープを固定しながら2つのピナクルを絡みながら登る。続くアップダウンのあるナイフエッジにはキノコ雪があり、フィックス・ロープを張った後でも緊張を強いられた。この先で尾根は岩壁帯下の雪壁に吸収され、6月12日、その直前の5200mに第2キャンプ(C2)を建設する。C2の上には、まるで屏風のような岩壁帯がルートに立ち塞がった。直登が難しく、右往左往したあげく岩壁帯下の雪壁をトラバースする。岩壁帯の上に出ると、いつ崩壊してもおかしくないセラック帯があり、崩れ落ちた跡の洞穴状の切り口が、一層恐怖感を煽る。28日このセラック帯を越えた先、雪のピナクルの基部5800mに第3キャンプ(C3)を作った。

 ここから雪のピナクル頂上まで岩と雪のミックス帯となり、側面を直登する。ピナクルを登り先のルートを見ると、手の切れそうなナイフエッジが小さな上下を繰返し、複雑に屈曲してプラトーまで続き、所々に大きなキノコ雪が張り出していた。頂稜部をピッケルで全て叩き壊しながら通過、わずか200m進むのに8時間もかかってしまった。
7月1日、プラトー先の尾根が広くなる奥の標高6200mに第4キャンプ(C4)を建設する。この辺から尾根そのものはおとなしくなったが、フィックス・ロープはすでに底をつきかけ、主稜線の東峰までは足りなくなる。C4からクレバスを右に巻いて雪壁に取り付いたが、一部硬い氷の上に薄く雪が積もる、いやらしいルートになる。その上部で尾根は台地状となり、緩やかな傾斜で東峰まで続いていた。標高約6700m付近で、フィックス・ロープはついに底をついてしまう。3日、C4から緩やかな雪稜をたどり午前10時45分、7010mの東峰の頂上に達する。ガスの中に見え隠れするラカポシ主峰の姿は、まるで赤谷山から剱岳の頂上を望むように遠かった。

 ファイナル・ピークに1000m余り届かなった登山を振り返り、山本宗彦は、「結局、ロープがなくては登れない、という無力さをさらけ出してこの登山は終わったが、挫折感は不思議となかった。ベースキャンプに下って、草の上に寝転びながらラカポシを見上げた時は、満足して登ったような気分がしていたが、帰途、フンザから見上げた時は、ラカポシという巨大な山のほんの一部しか登っていなかったことを痛切に感じた。私達が、そのもてる力を出し切って、やっとその懐を覗き見るにとどまったほどラカポシの頂上は遠い頂であった。」と、ラカポシの大きさを改めて感じ取っている。

 わずか3名という“小さな登山隊”は、81年のエベレスト以降、無風の炉辺会に風を起こし、再び海外へ登山隊を送り出す“大きな原動力”になった。

参考文献
  • 『岩と雪』125号(1987年12月発行)山本宗彦「ラカポシ東稜に挑む」
  • 『炉辺』第9号(1996年11月発行)山本宗彦「カラコルム遠征後の雑感―明治大学カラコルム登山隊(1987)―」
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