明治大学ヒマラヤ踏査隊(第1次エベレスト偵察隊)
活動期間 | 1976(昭和51)年2月〜4月 |
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目的 | エベレスト南西壁ルートの偵察とクーンブ氷河の調査。 |
隊の構成 | 隊長=橋本清(昭和37年卒、38歳) 隊員=和田耕一(同50年卒、23歳)、宮川良雄(同51年卒、25歳)、松田研一(3年、21歳、同52年卒) |
行動概要
プモ・リ直下のカラパタールからエベレスト南西壁を偵察する。偵察終了後、カトマンズでエベレスト登山料の半額を支払い、1976年2月12日付で1981年プレの正式登山許可証を持ち帰る。
明治大学エベレスト登山隊(1981)
活動期間 | 1981(昭和56)年3月〜5月 |
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目的 | 日本人未踏の西稜ルートからエベレスト(8848m)登頂。 |
隊の構成 | 総隊長=交野武一(昭和8年卒、72歳) 隊長=中島信一(同37年卒、42歳) 隊員=麻生惇巨(同40年卒、39歳)、西村一夫(同41年卒、37歳)、長谷川良典(同44年卒、34歳)、町俊一(同44年卒、34歳)、根深誠(同45年卒、34歳)、坂本純一(同49年卒、30歳)、和田耕一(同50年卒、28歳)、田中淳一(同51年卒、28歳)、松田研一(同52年卒、26歳)、大西規雄(同53年卒、26歳)、三谷統一郎(同53年卒、24歳)、佐久間一嘉(同55年卒、24歳)、中西紀夫(同55年卒、22歳)、田口伸(同56年卒、22歳)、松村定樹(4年、22歳、同57年卒)、高野剛(4年、22歳、同57年卒) 医師=荒井保明(慈恵医大)、林田康明(慈恵医大) |
行動概要
輸送担当の2名を除く全員がクーンブ氷河BC(5350m)に入り登攀開始。
ロー・ラのクンブツェ寄り6100mにC1建設。以後、4月16日から20日まで5日間、地吹雪で行動できず。
西稜のショルダー直下6700mにC2建設。
西稜肩を乗り越え、7200mに前進基地C3建設。
頂上ピラミッド基部7600mにC4建設。
ブリザードのため行動不能、C4テントが強風で壊れる。
8000mラインを突破し、西壁のルンゼ入り口付近8100mにC5建設。第1次アタック隊の松田と中西が入り、アタック態勢が完了。
第1次アタック隊は8200m付近に達したが、中西が凍傷を負い断念。
第2次アタック隊の田中とペンバ・ラマが挑んだが、8250mで引き返す。
C4から第3次アタック隊の松田と三谷がC5に入る。そのまま上部のルート工作に向かい、イエロー・バンドを突破、8450mまで固定ロープを張る。
第3次アタック隊は松田の酸素器具の故障もあり、8600mで無念の撤退。
8000mラインを突破し、西壁のルンゼ入り口付近8100mにC5建設。第1次アタック隊の松田と中西が入り、アタック態勢が完了。
第4次アタック隊の田中と田口は3次隊の到達地点を越え、さらに上を目指したが午後3時30分、世界最高峰まであと98mの8750m地点で田口の疲労が激しく、登頂を断念、C5に夜の8時30分、無事帰幕する。結果、中島隊長は登山終了を決断、翌21日から撤収開始。
全員BCに集結。翌24日、BCの閉村式。
BCを撤収、帰路キャラバン開始。
登攀ルートを巡り意見の相違が表面化
計画を進めていくうち、中島信一たちメンバーにとって南西壁は難しいという考えがあり、海外登山委員会との間に思惑の違いが生じる。78年夏、エベレスト計画について忌憚のない意見が出され、「3M作戦」の基本計画を見直すきっかけとなった。しかし、それは同時にエベレストに懸けるOBたちの間に隙間風が吹き、やがて大きな溝になっていった。
エベレスト遠征まであと1年半と迫った79(昭和54)年9月、海外登山委員会で再び意見交換の場が設けられた。ここで「南東稜ルート」を選択した登山隊側と、「新たなルート」でチャレンジを主張する委員会側と決定的な対立を生み、最終的に植村直己が挑む冬期登山隊とセットで「南東稜ルート」に落ち着く。植村は「明大創立100周年の記念事業としては、若手が頂上に立つことを大学側として希望しているのではないか」と述べ、続けて「行きたい人が、行きたいルートを推し進めていくのが良いのではないか」と語った。この発言が両者をつなぐことになる。
こうして81(同56)年のエベレスト登山は、植村直己の冬期登山を含めて進めることになり、79年12月、この100周年記念計画を大学側に説明、合意に達する。この後、大学側より1500万円の助成が決まり、計画遂行に弾みがついた。それにしても「南東稜ルート」と決まるまで、あまりにも時間がかかり過ぎた印象はぬぐえなかった。
80年9月に開かれた炉辺会臨時総会で「明治大学エベレスト登山隊」が承認され、隊長に中島信一が正式に決まる。いよいよラスト・スパートに入るはずだった。
突然のルート変更で対立が再燃
本番まであと5ヶ月余りに迫った1980年10月、エベレスト委員会が緊急に招集される。議題は「南東稜」から「西稜」にルート変更する件であった。ことの発端は、ネパール政府が同じ年のプレ・モンスーンに、エベレストの南隣のローツェ(8516m)に挑むブルガリア登山隊に許可を出したことだった。当然、アイスフォールからサウス・コルまで同一ルートになり、競合は避けられなかった。ネパール観光省からは、明大隊とブルガリア隊で協力して登山を実行してもらいたい旨の手紙が届く。10月初め、登山隊の幹部メンバーで至急検討した結果、南東稜を諦めロー・ラ経由の西稜から登攀すべき、となる。この転進に悩み苦しんだ中島隊長は、ルート変更をエベレスト委員会に諮った。
この急なルート変更の話は、侃々諤々8時間にわたって討議された。このときも植村直己の発言が印象に残る。「ここに来て、隊の中で意思統一ができていないということが危惧されると思う。西稜にしろ、南東稜にしろ、ここに行きたいという意思統一ができれば、それで良い。隊に任せた方が良いと考える」と語った。この結果、西稜ルートへの転進はやむなしとの結論になったが、委員会と登山隊の間に深い軋轢が生じてしまった。11月16日付で西稜転進の正式許可が下りる。本学創立100周年記念事業のエベレスト登山は、最後の最後まで登山ルートで揉めに揉め、しこりを残したまま出発することになる。
極限状況下での壮絶な人間ドラマ
第1次アタック隊から世界最高峰の頂を目指し、じわじわと最高到達点を延ばしながら頂上に迫った。そして、第4次アタック隊の田中淳一と田口伸の2人は5月20日午前3時半、8100mの最終キャンプ(C5)を出発する。正午に最難関の5級岩壁を突破、午後1時にホーンバイン・クーロワールの出口に到達する。午後2時、田中から「前方にピナクルが見えます。そこまであと50mほどです。田口がかなり苦しそうです」の交信が入る。
それから1時間半が経ち、終局がやってきた。午後3時30分の交信では「田口が疲労困憊で、目もときどき見えなくなっているようです。見ていてもかわいそうでなりません。もう頂上へ向かわせるパーティはないのでしょうか?このペースで頂上まであと3時間はかかるでしょう」トランシーバーの先で、田中の声は泣いていた。そのとき第3キャンプで前線の指揮を執る長谷川から、「隊長、下降させてください。もう限界です。高度は8750m、ビバークなど考えられません」と中島隊長に迫った。
中島は一瞬、沈黙した。「ここで中止すべきか」「頂上まで98m、あとわずかではないか」と心の中で葛藤した。が、気を取り直し「ただちに攻撃を中止し下降に入れ!長谷川は引き続き監視を!田中気を抜くな!田口を頼むぞ!」と全キャンプに呼び掛けた。続けて「これで我々は登頂を断念します。残念です。しかし、まだ2人は苦しみの中にいます。全キャンプは収容態勢をとり、2人の動向を注目するように!」と呼び掛けた。8000mで17時間に及ぶ苦闘を終え午後8時半、田中と田口は無事C5に帰幕した。
結果、世界最高峰まで98mを残し、エベレスト登山は幕を閉じた。振り返ると、この「残り98m」という“差”は、何を意味するのだろうか。単にメンバーの実力不足と簡単に片づけられない要因があったと思えてならない。それは登山隊が出発するまでの経緯を反芻すれば分かるように、炉辺会全体の“総力の差”と“総和の差”ではないだろうか。まさに“送り出す側”と“送られる側”の一体感が見られず、最後の最後まで不協和音は消えなかった。単一大学チームで初めて挑んだ世界最高峰への道のりは、内なる関所を通過するのに、あまりにも難儀な“エベレスト街道”であった。
- 報告書『明治大学創立100周年記念エベレスト西稜』(1982年10月発行)
- 『炉辺』第9号(1996年11月発行)中島信一「エベレスト西稜1981年プレ・モンスーン」