特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

明治大学アンナプルナ南峰登山隊(1978)

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アンナプルナ南峰登山隊

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活動期間1978(昭和53)年9月〜10月
目的未踏の南西稜ルートからアンナプルナ南峰(7219m)登頂。
隊の構成隊長=河野照行(昭和48年卒、27歳)
隊員=宮川良雄(同51年卒、28歳)、三谷統一郎(同53年卒、22歳)、中西紀夫(3年、20歳、同55年卒)、綱川雅之(3年、20歳、同55年卒)
医師=加藤賢朗(27歳、自治医大)

行動概要

9月14日

キュムロン・コーラ4050mに仮BC建設、高度順化。

9月20日

南西稜の取付台地4800mにBC建設。

9月27日

4日間のルート工作の末、5700mのピークを削りC1建設。

10月3日

アップダウンの連続となり、やむを得ず5770mのコルにC2建設。

10月13日

氷壁の基部6400mにAC設営。

10月14日

稜線までフィックスするロープが不足し、BC-C1間のロープを回収。翌日に稜線の7050mまでフィックス工作を行い、アタック態勢完了。

10月16日

第1次アタック隊の三谷と中西は午前8時45分登頂。

10月17日

第2次アタック隊の河野と宮川が午前9時21分に登頂。

10月19日

BC-C1間に再びロープをフィックス、C1を撤収し全員BCに下山。

10月22日

BCを撤収、登山活動を終了し帰路キャラバン開始。

計画の発端から新しい登山スタイルを模索

 チューレン・ヒマールの遠征隊に参加した町俊一と河野照行は、エベレスト偵察隊に参加した宮川良雄と3人で、次の海外登山について話し合った。3人でまとめた遠征プランの基本的な考えは―

  • 翌年の78年ポスト・モンスーンに遠征隊を出す。
  • 隊の編成は若手OB、現役学生を交え少人数で行う。
  • 目標とする山は未踏峰か、未踏峰でなければバリエーション・ルートとし、最小予算で実行できるよう、キャラバンは短い場所を選ぶ。

 以上の観点から最初に計画されたのがアンナプルナ山群にあるラムジュン・ヒマール(6983m)を北稜から挑むプランであった。このころ、本学創立100周年のエベレスト遠征が4年後に迫り、本番に備え最終仕上げの段階に入っていた。これまでチューレン・ヒマール、ヒマルチュリと続き、最後の遠征隊を送り出すタイミングのときだった。当時、海外登山委員会委員長の平野眞市は、新しい形の遠征隊を模索していた。平野は過去のオーソドックスな大編成方式から、“軽量かつスピーディ”を目標にライト・エクスペディションができないか考えた。コンパクトな遠征隊であれば負担軽減にもつながり、少ない費用で海外登山が可能になるからだった。

 77年6月8日、河野たちは次期遠征プランを平野委員長に提出した。平野は「従来の極地法の域を脱していない」と一蹴する。そして、河野に「新たなタクティクスで、“スピーディな登山”でなければ駄目だ。その際、全てにおいて強い隊員で編成することが条件だ」とアドバイスした。河野たちは早速、少人数、小予算で行う遠征計画を再度練り直した。その中から有力候補となったのが、アンナプルナ山群にある未踏峰ニルギリ南峰(6839m)であった。しかし、ニルギリは当時まだ未解禁の山で、許可取得に時間がかかるからと諦め、宮川が強く薦めたアンナプルナ南峰に決めたのは、夏が終わる9月であった。

アンナプルナ南峰登山隊のタクティクス

 アンナプルナ南峰は70(昭和45)年に南面からフランス隊によって登頂されたが、挑む登山隊が多い割には成功率の低い山だった。河野はいまだ登られていない南西稜から挑むことにした。“軽量かつスピーディ”に登頂することを目的に、登山期間は1ヶ月をかけない29日間とし、キャンプはベースキャンプ(BC)から上は2つしか設けないことにした。また、キャンプ間の荷揚げや登降をスムーズに行うため、フィックス・ロープをベタ張りにし、安全確保とスピードを高めることにした。登山期間を大幅に圧縮、なおかつキャンプ間の高度差が大きくなることから、高所順応は実動に入る前、5日間を設けることにした。

 隊の構成は隊長含め5名(医師を除く)とし、若いヒマラヤ経験者で固めようとしたが、3年間に2度の遠征があり、若手OBの参加は無理となった。また、中心メンバーの町が仕事の関係上、参加できなくなる。そこで河野はヒマルチュリから帰国した三谷統一郎を説き伏せ、内諾を取る。結果、隊員の中でヒマラヤ経験者はわずか2人だけとなる。学生隊員は、部活動と遠征をどのように調和させるか問題となったが、尾高剛夫監督と次期ヘッドコーチとなる長谷川良典と相談し、派遣を決める。年度が改まった4月1日、春山合宿の検討報告会の席上で、尾高監督より中西紀夫と綱川雅之の2名が学生隊員として参加すると発表された。

 “軽量かつスピーディ”な登攀を目指すアンナプルナ南峰登山計画が、海外登山委員会で討議された。委員会では厳しい質問が委員から出され、同行医師がまだ決まっていないことも重なり紛糾した。出発3ヶ月前の6月に入っても、海外登山委員会での追及は続いた。こうした渦中にいる河野を励ましたのは、かつて一緒に登ったチューレン・ヒマールの仲間たちだった。河野は気を取り直し準備に勤しんだ。6月28日に開かれた委員会で、細部はこれから詰めることでようやく了承された。7月に同行医師も決まり、準備は大詰めとなって8月10日に隊荷を発送、14日に宮川と三谷は先発隊としてカトマンズに出発した。

大きなプッシャーを背負った小さな登山隊

 プレッシャーを背負った登山隊は、若い力を思う存分発揮しファイナル・ピークに立った。BC建設から27日目に登頂、登山期間もBC建設から下山集結まで30日というスピーディさであった。登山隊の平均年齢は24歳という若いメンバーで、一心同体となって登山に打ち込んだ。

 また、これまでの遠征隊で最も若い隊長となった河野は、全員とはいかなかったが、4名をファイナル・ピークに立たせた。そして、何より本学創立100周年エベレスト遠征直前というプレッシャーを跳ね飛ばし、成功を収めたことは、チームワークの賜物と言える。中でも学生隊員1名がヒマラヤの頂に立ったのは初めての快挙となり、昭和54年度駿台体育会総会で、北島忠治会長から山岳部に感謝状が授与された。

 少数編成のアンナプルナ南峰登山隊は、大規模な登山隊の陰に隠れてしまいがちだが、これまでのオーソドックスな大規模登山隊の殻を打ち破り、新しい時代を見据えるフロント・ランナーとなった。

参考文献
  • 『山岳』第74年(1979年12月発行)河野照行「アンナプルナ南峰(1978年秋)〜南西稜の登攀〜」
  • 『炉辺』第8号(1980年2月発行)河野照行「アンナプルナ・サウス〜1978年ポスト〜」報告書
  • 『ANNAPURNASOUTHEXPEDITION1978」(1980年10月発行)
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