明治大学ヒマラヤ踏査隊(1976)
活動期間 | 1976(昭和51)年4月 |
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目的 | チューリン・コーラからのヒマルチュリ登路偵察。 |
隊の構成 | 隊員=和田耕一(昭和50年卒、23歳)、宮川良雄(同51年卒、25歳) |
行動概要
チューリン・コーラへ実際に入ることができず、写真撮影のみで終わる。
明治大学ヒマルチュリ偵察隊(1976)
活動期間 | 1976(昭和51)年9月〜10月 |
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目的 | ヒマルチュリ東面のチューリン・コーラ偵察。 |
隊の構成 | 隊長=節田重節(昭和40年卒、33歳) 隊員=根深誠(同45年卒、29歳)、林直記(同49年卒、24歳)、和田耕一(同50年卒、24歳) |
行動概要
ブリ・ガンダキ沿いにキャラバンを進め、チューリン・コーラに入り偵察。その結果、チューリン・コーラのBC予定地は4000mに満たない不利な場所で、さらにアイスフォールの入り口付近は狭く、氷塊や落石の崩壊を受ける危険性が大きいと分かる。この偵察隊の報告により、従来のJACルート(東壁)を採用することになる。
明治大学ヒマルチュリ登山隊(1977)
活動期間 | 1977(昭和52)年3月〜5月 |
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目的 | 未踏の東壁ルートからヒマルチュリ(7893m)登頂。 |
隊の構成 | 隊長=菅沢豊蔵(昭和40年卒、34歳) 副隊長=入沢勝(同40年卒、35歳) 隊員=近藤芳春(同42年卒、33歳)、小野勝昭(同42年卒、33歳)、長谷川良典(同44年卒、30歳)、根深誠(同45年卒、30歳)、岡澤修一(同47年卒、28歳)、竹田和夫(同50年卒、25歳)、和田耕一(同50年卒、25歳)、田中淳一(同51年卒、24歳)、鳥山文蔵(同49年卒、28歳)、五十嵐武美(4年、23歳、同53年卒)、三谷統一郎(3年、21歳、同53年卒) 医師=佐々木達海(28歳、慈恵医大山岳部OB)以上14名 |
行動概要
シュラン谷の4100mにBC建設。24日より長大な東尾根に登山開始。
C1を建設するが、雪崩の危険があり上部(5300m)に移動。
広大な雪原の端にC2(6000m)建設。
ラニー・ピークの肩にC3(6450m)建設。ここからリダンダ氷河側に下降するブルーアイスの壁にフィックス工作。
全員BC集結、18日まで休養。19日から後半戦を開始。
ラニー・ピークの壁を下降し、雪原を横断してリダンダ氷河側のコル(6100m)にC4を建設。
ジャンプ台下にC5(6800m)建設。翌日から降雪続く。
午前11時過ぎ、C5で雪崩発生、ジャンプ台に一時避難。
C5の3名をC4に収容。
C5をジャンプ台に再建。最終キャンプ(C6)へルート工作開始。
深いラッセルに苦しめながら、東壁取付のクレバスで段になった所にC6(7150m)建設、長谷川と五十嵐が入りアタック態勢完了。
第1次アタック隊はルート工作しながら東壁を登攀。しかし、予想外のラッセルに苦しめられて時間を費やし、稜線直下50mの地点で引返す。
第2次アタック隊の近藤、三谷は東壁を突破、稜線伝いにピークを目指す。しかし、頂上直下100mで時間切れとなり引き返す。東壁を下降中、近藤が稜線の雪庇崩壊による氷塊の直撃を頭部に受け死亡。20時過ぎ、C5の長谷川らが雪崩跡に近藤の遺体を発見。三谷は無事C5に収容される。
遺体収容とC6、C5の撤収。
遺体とともに全員BCに集結。22日、近藤芳春隊員の遺体を荼毘に付す。
BCより帰路キャラバン開始。
新しい規則で登山許可取得に混乱
76年1月に発布されたネパール政府の新しい山岳遠征規則(第3条第2項)に、「山岳遠征を遂行しようとする日時の1年前に、登山許可の申請書をネパール王国政府外務省に提出すること」が明記された。そのため76年秋の計画は間に合わず、77年プレを目標に半年先送りした。
当時、候補に上がったのは①ヒマルチュリ東面ルート、②アンナプルナⅠ峰(8091m)フランス隊ルート、③チョー・オユー(8201m)南面の3つのプランであった。76年3月の検討会で第1候補をヒマルチュリ東面に決め、早速、ネパール政府に登山許可の申請手続きを行った。ところが、登山許可取得でつまずいてしまう。ネパール政府の新しい規則が発布されて初年度ということで、許可申請書がネパール政府に届いたのは7月下旬となる。その後なかなか登山許可が下りないことに業を煮やした菅沢豊蔵は、76年も暮れようとする12月下旬、直接ネパールに乗り込む。そして、77年春の登山許可を取り付けるという一幕があった。
未踏の東壁を突破したが、近藤隊員の死で無念の撤退
77年3月22日、一面雪で覆われたシュラン谷の4100m地点にベースキャンプを建設、登山活動に入る。登山活動は前記の行動概要を参照していただき、ここでは2度のアタックについて記す。このシーズンの東壁は幸い蒼氷に覆われず、ルート工作に大きく手間取ることはなかった。その反面積雪の多い年で、ラッセルに苦しめられる東壁に変貌、著しく体力を消耗させられた。第1次アタック隊(長谷川・田中)は深いラッセルに苦戦、稜線まで届かなかった。
第2次アタック隊の近藤と三谷は、第1次隊のルート工作によりスムーズに東壁を登攀したが、稜線から大きく張り出した雪庇を切り崩すのに時間を要してしまう(結果、この大きく張り出した雪庇が近藤の命を奪うことになる)。ようやく午後2時、稜線に抜け出したが、この後の模様を三谷は、「長時間の行動で2人とも疲労気味ではあったが、稜線に抜け出てからアンザイレンをして目の前に見えている小さな雪のピークをトラバースして岩稜伝いに行き、西面側の雪の斜面をトラバースして頂上に続くゆるやかな雪の斜面に出た。ここにザックを置いて、カメラと必要品のみを持って頂上直下のロック・バンドの続く雪の斜面の途中まで行ったところ、時間的に見て遅く、ビバークの用意もないため午後4時15分に引返すことを決定して往路をC6に向け行動した」と書いている。
これまで日本山岳会隊、イタリア隊、青山学院大隊いずれの挑戦も阻み続けてきた東壁は、2人によって登攀され、初期の目的は達成された。しかし、帰路の途中、稜線の雪庇の崩壊を受け、近藤芳春隊員は不慮の死を遂げてしまう(「岳友たちの墓銘碑」参照)。明大山岳部遠征史の中で初めて遭難者を出す結果となり、ヒマルチュリ登山は幕を閉じる。近藤とザイル・パーティを組んだ三谷統一郎は、その後ヒマラヤ遠征で大きく羽ばたき、数々の輝かしい記録を打ち立てていく。
- 『山岳』第73年(1978年12月発行)菅沢豊蔵「ヒマルチュリ東尾根(1977年春)」
- 『炉辺』第8号(1980年2月発行)菅沢豊蔵「ヒマルチュリ―1977年プレ―」