明治大学ダウラギリⅤ峰偵察隊 (1974)
活動期間 | 1974(昭和49)年3月〜5月 |
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目的 | ムクート・コーラに入り、アイスフォイールなどダウラ・ヒマールの北面を偵察。チョルテン・リッジはじめダウラギリⅤ峰(7618m)を望む。 |
隊の構成 | 隊長=植村直己(昭和39年卒、32歳) 隊員=西村一夫(同41年卒、29歳)、長谷川良典(同44年卒、26歳) |
行動概要
カトマンズ滞在中にダウラギリⅤ峰の正式許可が取得されなかったため、偵察隊としての許可も下りず、トレッキングの許可でダウラギリ北面に入る。3月19日、シェルパ1名とポーター7名でジュムラを出発、17日間のキャラバンの末にムクートに到着。岩壁の奥にダウラギリⅣ・Ⅴ峰、チューレン・ヒマールなどがそびえ立っていた。
集落近くの標高3900から4050mのムクート・コーラ右岸段丘にBCを設け、チョルテン・リッジ周辺の偵察を行う。4月11日、タランへ移動、東チューレン・コーラ内院を調査する。ケハルンパの険しい峡谷に難行を重ね、サングダ・コートを経てカリガンダキの谷へと支脈を回り込む。ダンガルゾン村を経て、下流のジョムソンで踏査を終える。帰国前、ネパール政府よりダウラギリⅤ峰の登山許可を取得する。
明治大学チューレン・ヒマール登山隊(1975)
活動期間 | 1975(昭和50)年3月〜5月 |
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目的 | 未踏の西稜からチューレン・ヒマール(7371m)登頂。 |
隊の構成 | 隊長=中島信一(昭和37年卒、36歳) 隊員=麻生惇巨(同40年卒、32歳)、西村一夫(同41年卒、30歳)、近藤芳春(同42年卒、30歳)、長谷川良典(同44年卒、27歳)、町俊一(同44年卒、27歳)、河野照行(同48年卒、23歳)、坂本純一(同49年卒、24歳)、和田耕一(同50年卒、23歳) 医師=浜口欣一(33歳、慈恵医大山岳部OB) |
行動概要
カペ・コーラ源頭のモレーン末端4100mにBC建設。
カペ・コーラ左俣最奥のモレーン上部の4700mにC1建設。その後、C2予定地を偵察したが、距離が長いためプラトーに出た5300mにデポを設け、逆ボッカも併用し荷揚げ。
一ツ目岩上5600mにC2建設。この日サポート隊の帰路、町がデポ地付近でヒドゥン・クレバスに落ちたが、幸い無傷で救出され、無事C1へ帰幕。
麻生以下3名は西稜に向けルート工作開始。西稜のC3予定地へは一ツ目岩を目がけ、急角度で西稜から派生するバットレスを登攀。しかし、これより上部は難所が多く、ルート工作は難航を極めた。
近藤と河野はバットレスを抜け切り、午後4時、西稜上に達する。
全員BCに集結、3日間休養し28日から後半戦スタート。
バットレスを登攀し、西稜上6100mに待望のC3を建設。この後、急峻な氷雪と岩の西稜にルートを延ばす。
西稜上6600mの狭い場所にC4建設。ところが、夜半より風が激しくなり7日未明、C3のテントは潰され、C1ではテント・ポールが曲がる被害となる。そのため7日は予定行動を全て打ち切り、態勢の立て直しを図る。
無風快晴となり町と和田、ハクパの3名は上部偵察に向かい、イエローバンド上部岩壁を乗り越え、6800mまでルートを延ばす。しかし西稜は厳しく、C5予定地7000mまでのルート工作は進まなかった。
第1次アタック隊の長谷川と河野は急峻な岩と雪稜を進み、7000mの雪庇の陰にC5を建設、アタック態勢が完了。
長谷川と河野が未踏の西稜から登頂に成功。下山に入ると吹雪となり、視界が悪くなったので7200mの岩穴でビバーク。翌14日にC5帰着。
近藤、坂本、シェルパのラマの第2次アタック隊は7200m地点で涙を飲む。2次隊も途中でビバークし、翌日下山。
全員BC集結。
BCを撤収、帰路キャラバン開始。
連続遭難から再起し、再びヒマラヤへ
1969(昭和44)年4月、翌年に本学創立90周年を迎えることから、炉辺会は「ヒマラヤ遠征準備会」を設けた。再び明大単独でのヒマラヤ遠征へと期待は膨らんだ。
ところが、71(同46)年に石島修一(4年部員)、72(同47)年には梶川清(3年部員)が死亡する連続遭難が起きてしまう。炉辺会はヒマラヤどころではなくなり、山岳部の再建に全力を挙げなければならなかった。再建を託された「強化委員会」委員長の中島信一は、学生を指導する若手OBの姿を見ながら、沈滞ムードを吹き払うにはヒマラヤ遠征が必要と痛感する。しかし、ゴジュンバ・カン遠征から明大山岳部は10年近く鳴りを潜め、これまでの遠征経験者は30歳代を超し、若手OBの経験者は1人もいなかった。
中島は、若手OBの心の底に「ヒマラヤに行きたい」という強い願望があることを知り、遠征未経験者だけで夢のヒマラヤに挑もうと心に決める。そうした意気込みが炉辺会の上層部に伝わり、長らく海外遠征から遠ざかっていた炉辺会に火をつけた。
ダウラギリⅤ峰計画が始動
学生を指導する「強化委員会」の合間を縫いながら検討した結果、新鮮味のあるダウラギリ山群が候補に上り、未踏のⅣ峰(7661m)とⅤ峰(7618m)の中からⅤ峰に落ち着く。
こうしてヒマラヤへの気運は一挙に高まり、炉辺会は創部50周年の記念事業として遠征隊派遣の検討に入った。73年11月に開かれた海外登山委員会で、提案者の中島以下9名によるダウラギリⅤ峰計画が提案され、承認される。
登攀ルートは未知な部分が多く、偵察隊を派遣することにした。冒頭に記した「明治大学ダウラギリⅤ峰偵察隊」は、75年プレ・モンスーンのダウラギリⅤ峰北面の登山許可証を受け取る。そして、偵察の報告を受け基本計画がまとまり、いよいよ本格的な準備作業に入った。
突然の入域禁止でチューレン・ヒマールへ転進
このダウラギリⅤ峰の計画を受け、海外登山委員会の上層部で本学創立100周年記念事業の一大プロジェクトが水面下で動き出す。その第1弾としてダウラギリⅤ峰遠征が位置づけられ、若手OBの隊員養成を兼ねることにした。
着々と準備を進めていた7月、突如、ネパール政府が「北西ネパールの入域禁止」を発表した。当初は楽観視しながら粛々と準備を進め、予定通り11月20日に隊荷を発送させた。ところが、ネパール政府の北西ネパール入域禁止措置は解除されず、隊荷を送り出し一段落と思った矢先の11月22日、ネパール政府から外務省宛にダウラギリⅤ峰(北面)の登山中止命令書の写しが送られてきた。この衝撃は尋常ではなかった。やり場のない怒りと虚脱感が時間とともに高まっていった。
中島は急遽12月13日、ネパールに飛んだ。現地の窓口と交渉したが、ダウラギリⅤ峰北面の入域禁止措置は解除されず、断念せざるを得なかった。ところが、幸いにも東芝山岳会がチューレン・ヒマール遠征を取り消したため、特別の計らいで転進が認められ、12月15日付でチューレン・ヒマールの登山許可を取得する。土壇場での転進は、同じダウラギリ山群の山であり、大幅な軌道修正をしないで済んだ。チューレン・ヒマールはダウラギリⅤ峰に比べ250m弱低いが、未踏ルートの西稜から挑むことになる。
ヒマラヤ未経験のメンバーで挑戦
10年ぶりにヒマラヤを目指す明大隊は、急峻な岩壁とナイフの刃のような雪稜から成る未踏の西稜に挑んだ。そして5月13日、アタック日を迎える。午前5時半、アタック隊の長谷川良典と河野照行は、最終キャンプC5(7000m)を出発する。長い沈黙が続いた午後4時、「ただ今頂上に達しました」と、長谷川のかすれた声がトランシーバーから飛び込んできた。チューレン・ヒマールの頂は雲間に隠れて見えないが、歓喜に沸いた。ところが午後6時30分、アタック隊が7200mまで下ったところで「吹雪のため視界が悪く、ビバークできる岩穴があるので、ここに泊まります」と連絡が入る。
2人は7200mの岩陰で苛酷な一夜を過ごす。翌14日は第2次アタックを取りやめ、長谷川、河野を収容する態勢に入る。午後3時過ぎ、2人はようやく第5キャンプへ無事帰還した。翌15日、近藤芳春と坂本純一、ペンバ・ラマの
3名は、最後の力を振り絞り第2次アタックに向かうが、ピッチが上がらず断念するという結果で終わる。
ゴジュンバ・カン遠征から10年の空白期間の後、ヒマラヤ未経験のメンバーは持てる力をフルに発揮、未踏ルートからファイナル・ピークに立った。幸先良いチューレン・ヒマールの成功から、世界最高峰へ向かってスタートを切ることになる。
- 報告書『7000m級の峰に立つためにWestRidgeChurenHimal』(1976年11月発行)
- 『山岳』第70年(1976年12月発行)中島信一「チューレン・ヒマール西稜(1975年)」
- 『炉辺』第8号(1980年2月発行)中島信一「チューレン・ヒマール西稜〜1975年プレ〜」