ニュージーランド親善登山隊 – 第2次 –
活動期間 | 1965(昭和40)年12月〜66(同41)1月 |
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目的 | マウント・クック(3764m)登頂およびNZACとの交流親善を図る。 |
隊の構成 | 隊長=橋本清(昭和37年卒、27歳) 隊員=斎藤郷太郎(4年、22歳、同41年卒)、坂本文男(3年、21歳、同42年卒)、小野勝昭(3年、21歳、同42年卒) |
行動概要
ハミテージに着き、NZACのアンウィン・ハットに宿泊。
タスマン氷河右岸のサイド・モレーンを歩き、ボール・ハット経由でモルテブラン・ハット着。19日から22日まで滞在し、モルテブラン氷河付近で氷河技術訓練、ランファリー氷河よりミナレッツ登頂。
ホッチステッター・アイスフォールを左に急峻なハースト・リッジを登る。古いハースト・ハットを過ぎると雪が多くなり、ラッセルに悩まされながらグレイシャー・ドームを回り込みプラトー・ハットに着く。
リンダ氷河を偵察。この後、吹雪と雨で6日間停滞。
午前零時に出発。リンダ氷河の最奥から左手のザブリゲン・リッジをトラバース。岩とアイス・キャップ(氷冠)現れ、岩稜は雨で氷化したルートをカッティングしながら登る。11時30分、ロック・リッジの頂上に着いたが、時間切れとなり下降。
第1次アタックの斎藤と坂本が出発。アイス・キャップの状態
は良く、アイゼンを効かせコンティニュアスで進み、午前8時、クックに登頂。
第2次アタックの橋本と小野が出発。トレースもありピッチよく登高を続け、午前7時50分、クック頂上に着く。
プラトー・ハットで天気待ちの後、昼過ぎから下山。ハースト・ハットで休憩後、タスマン氷河まで一気に下る。ボール・ハットの最後の登りでひと汗かき、アンウィン・ハットに帰着。
現地での交流、そして登頂へ
第2次隊も学生中心で編成したが、OBの参加は不可欠となる。そこでOB1名に学生3名の4名で編成し、前回同様、小規模の隊となる。2次隊は1次隊と綿密な打合せを行い、目標はクック登頂はじめモルテブラン、ミナレッツなどニュージーランドの山々を数多く踏査することにした。
隊員決定から出発までわずか45日間という短い期間であったが、1次隊からのアドバイスで準備はスムーズに進められた。冬山合宿の一環という建前から国内合宿に近い形態を採り、装備の新規購入は控え、できるだけ部室にあるものを使用することにした。今回は現地でトニー・フーパー氏などの同行が困難となり、隊長の橋本はレンジャー(国立公園管理人兼登山ガイド)の同行も求めないことにした。
12月3日早朝、シドニー港に着き、翌日、飛行機でクライストチャーチに入る。空港では1次隊同様、ニュージーランド山岳会の名誉書記ノーマン・ハーディ氏が出迎えてくれた。さらに翌5日にはオークランドからエドモンド・ヒラリー卿が駆け付けてくれ、感激のご対面となる。ニュージーランドの国民的英雄ヒラリー卿は、このときエベレスト初登頂から12年後で46歳。学生たちから見れば“はるか雲の上の人”で、片言の英語で挨拶できたことは、かけがえのない思い出となった。
6日より登山の準備を始め、10日から1次隊同様、トレーニング場所としてアーサーズ・パス山域に向かった。ここで3日間マウント・キャシディ、テンプルの縦走、そして最高峰ロールストンに登り、14日、クライストチャーチに戻る。
16日からの行動は前記の行動概要を参照してもらい、年が明けた1月6日に斎藤と坂本、8日に橋本隊長と小野がクックに登頂した。1次隊と違いガイドレスで決行したことから、逆に伸び伸びと登山ができたようだ。登頂の鍵は、トニー・フーパー氏からあった「クック山頂に午前11時ごろか、遅くとも昼ごろまでに登らないと、下山は難しくなる」というアドバイスを守った成果と言える。
橋本隊長は、「当時の部員たちに海外の山を身近に感じることができ、山岳部発展に寄与した意義は大きかった。しかし、その反面、このニュージーランド遠征が冬山合宿の一環とすればするほど個人負担金の差をはじめ、海外それとも国内のどちらの合宿に参加するかなど、学生間に数多くの問題点を残した」と振り返った。
学生中心の遠征とも言うべき“学生海外合宿”は、時代を先取りした画期的な試みであった。学生部員たちに異国の山を体験させた功績は、決して小さくはなかった。
- 『山と溪谷』329号(1966年5月発行)橋本清「南半球の山マウント・クック登頂記」
- 『炉辺』第8号(1980年2月発行)橋本清「第2次ニュージーランド遠征1965年」