明治大学ゴジュンバ・カンⅡ峰登山隊
活動期間 | 1965(昭和40)年3月〜4月 |
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目的 | 未踏峰ゴジュンバ・カンⅡ峰(7646m)の初登頂。 |
隊の構成 | 調査隊長=渡辺操(53歳、山岳部部長、文学部教授) 登山隊長=高橋進(昭和28年卒、34歳) 副隊長=藤田佳宏(同30年卒、31歳) 隊員=平野眞市(同36年卒、26歳)、尾高剛夫、(同37年卒、24歳)、小林正尚(同39年卒、23歳)、植村直己(同39年卒、23歳)、入沢勝(4年、22歳、同41年卒)、医師=長尾悌夫(32歳、慈恵医大山岳部OB) |
行動概要
ゴジュンバ氷河5000mにテント3張のBCを建設。24日より上部偵察。
荷揚げ隊の入沢がアイスフォール崩壊による氷雪崩に遭い負傷。急遽、アイスフォール下に中継キャンプを作り入沢を収容、長尾ドクター、藤田、尾高が付き添う。4月1日、入沢をBCに降ろす。
アイスフォール帯の蒼氷の迷路に苦しみながら5700mにC1建設。
C1上部で氷の破片がシェルパのドルジェの顔面に当たり負傷する。
6000mにC2建設。
6500mにC3建設。この間、BCへ下って休養する余裕なく疲労が蓄積する。
6900mにC4を建設、アタック隊の平野、小林、ミンマがC4入り。
第1次アタック隊の3名は朝5時、C4を出発、頂上直下につながる氷壁を抜ける。しかし、その上の壁で行き詰まり断念、午後4時、C4へ戻る。
第2次隊の植村とペンバ・テンジンは、ルート探しに苦労しながらも午後5時過ぎ、ゴジュンバ・カンⅡ峰に初登頂。帰途7400m付近のクレバスの中で身を寄せ、ビバークする。
植村とペンバがC4に帰幕。その後、C4とC3を撤収しC2に下山。
全員BC集結。28日まで休養と下山準備。
BCを撤収、帰路キャラバン開始。
研究会ではギャチュン・カンを計画
高橋進は1960(昭和35)年のマッキンリー遠征を終えたら、2年ぐらいの準備期間を置いてヒマラヤに挑みたいと考えていた。そこで61(同36)年から高橋は藤田佳宏と若手OBを集め「ヒマラヤ研究会」を頻繁に開き、7000m級の山の地図や写真を持ち寄り研究に励んだ。
その結果ギャチュン・カン(7952m)が候補に浮上した。そのころ長野岳連隊が翌年(64年)にギャチュン・カンに遠征隊を送ると発表、それでも「ヒマラヤ研究会」は、65年を目途にギャチュン・カンに遠征すべく準備を進めた。そして、「ヒマラヤ研究会」は「遠征研究会」となり、具体的な計画に着手した。
そうした中、「遠征研究会」に追い風が吹く。日本は64(同39)年4月1日から海外渡航の自由化が決まる。同年4月8日の炉辺会総会でヒマラヤ遠征計画が発表され、承認される。ところが、皮肉にも総会の翌々日の10日、全岳連隊がギャチュン・カンに初登頂してしまった。この知らせは第2の目標を考えていなかった「遠征研究会」に衝撃を与え、計画を白紙に戻さざるを得なくなってしまった。
次なる目標に向け“七転び八起き”の粘り
早速、次なる目標の選定に入り、新たな候補としてギャチュン・カンの西隣にあり、標高も余り変わらないゴジュンバ・カンを目指すことにした。そうした矢先、思いもかけない知らせが飛び込む。同時期にローツェ・シャールを目指す早大から「早大隊を最後に当分の間、ヒマラヤ登山隊のネパール入国を認めない」という情報だった。ネパール政府が65年から4年間、登山禁止令を出したのだ。「遠征研究会」は慌てふためいた。
ちょうどそのころ、単独でドーム・ブラン(ペンタン・カルポ・リ、6865m)に挑み(巻末「登頂クロニクル」参照)、カトマンズに滞在していた田村宏明に登山許可取得の指令が飛ぶ。11月17日から12月3日までの半月、炉辺会の東京本部と田村との間で電報発信は8回も続いた。
12月3日、田村からネパール政府がゴジュンバ・カンの登山を許可するという電報が届いたとき、東京本部は興奮に包まれたという。そして12月8日、外務省より登山許可の公式電報が入り、早速、山岳部長の渡辺操教授を団長とする「明治大学ネパール・ヒマラヤ学術調査隊」が編成され、登山隊長に高橋進が選ばれて急ピッチの準備が進められた。
ゴジュンバ・カンとはどの山?
実は外務省からの公式電報には「ゴジュンバ・カン」ではなく「チョー・オユーⅡ峰」という名前で許可が下りていた。当時、ネパール政府の地図に「ゴジュンバ・カン」という山名は載っておらず、便宜上「チョー・オユーⅡ峰」にしたようだ。この名称が、現地に入った登山隊に大きな混乱をもたらす。当初、目標としたピークは英国の王立地学協会が61年に発行した地図に7839mとあるピークで、日本では一般に「ゴジュンバ・カン」と呼ばれていた。
キャラバン2日目、ゴジュンバ・カンを望見したとき、長野岳連隊からもらった写真をサーダーに見せ「このゴジュンバ・カンを登る」と写真の山を指さすと、サーダーは「いや、それはゴジュンバではない。サーブたちがゴジュンバという山は、チョー・オユーのすぐ右隣の山で、我々も名前を知らない。ゴジュンバという山は、その山の次の山のことを言うのだ」と説明した。慌ててシェルパたちを交え聞き取ると、「ゴジュンバ」とは「3つの頂上を持つ雪山」という意味で、地元民の使うローカル・ネームであった。今では考えられないことだが、当時、詳細な山岳地図もない往時の苦労が偲ばれる。
翌66(同41)年7月、望月達夫氏が日本山岳会の会報「山」253号に寄せた「ゴジュンバ・カンの標高のことなど」によると、明大隊が登頂したのは標高7646mの「ゴジュンバ・カンⅡ峰」と記され、チョー・オユーの東に続く衛星峰であった。すなわち、チョー・オユーに近い西峰がⅠ峰(7743m)で、そこから東に2㎞離れたⅡ峰(中央峰、7646m)、さらに東2㎞にあるⅢ峰(東峰、約7500m)と連なる連峰であった。
12時間に及んだアタック
第1次アタック隊の平野眞市、小林正尚、ミンマ・ツェリンの3名は4月22日、第4キャンプ(C4)を出発、ファイナル・ピークを目指した。しかし、ルート選択に手間取り、体力の消耗も激しく登頂を断念し引き返す。この失敗は高橋隊長に大きなプレッシャーとなる。隊員の中に故障者が続出し、次の第2次アタック隊が失敗すると、第3次隊を出す余力はなくなっていた。それだけ第2次隊に懸けるしかなかった。
第2次隊の植村直己とシェルパのペンバ・テンジンは翌23日午前5時、星明りと懐中電灯の淡い光を頼りに出発する。前日の第1次隊のステップとフィックス・ロープを頼りに快調に登り、午前8時に第1次隊の引き返し地点に到達する。
いよいよ、ここから前人未踏の領域に入る。途中に現れた30mの切り立つ氷壁の直登に1時間も費やしてしまう。そして午後4時、植村から「国境稜線に出ました。この次の交信は頂上からにします」と連絡、頂上までもう少しとなった。
しばし静寂の時が流れ午後5時5分、植村たちは12時間に及ぶ激闘の末、ファイナル・ピークに立った。2人は夕闇をついてアイスフォールを降り夜7時30分、7400mのクレバスの中に身を寄せ合って一夜を明かす。翌24日、植村たちはサポート隊に迎えられ午前9時30分、無事C4に戻った。植村はかつて経験したことのない激しい疲労と虚脱感で、テントの中にバッタリと倒れ込む。やがて責任を果たし終えた安堵感と、登山隊を応援してくれた仲間への感謝を思い、植村の目には訳もなく涙が湧き出たという。
詳しい地図もない時代、初めてヒマラヤに足を踏み入れた登山隊は、悪戦苦闘しながら未踏峰のゴジュンバ・カンⅡ峰の頂に立った。初めてのヒマラヤ挑戦で7000m峰、それも未踏峰に初登頂という輝かしい記録を打ち立てたのである。(備考:今回、正確に記述するため、登頂した正式山名がゴジュンバ・カンⅡ峰であったことから「ゴジュンバ・カンⅡ峰登山隊」と改めた。)
- 『山岳』第61年(1967年3月発行)高橋進「ゴジュンバ・カン登頂(1965年)」
- 高橋進編『登頂ゴジュンバ・カン』(茗渓堂、1967年9月発行)
- 『炉辺』第8号(1980年2月発行)高橋進「ゴジュンバ・カン―1965年プレ」