ニュージーランド親善登山隊 – 第一次 –
活動期間 | 1964(昭和39)年11月〜12月 |
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目的 | ウェスト・バットレニュージーランド最高峰マウント・クック(3764m)登頂、およびニュージーランド山岳会(NZAC)と交流を図り、氷雪技術の修得と登山視野を広める。 |
隊の構成 | 隊長=佐藤大吉(昭和24年卒、35歳) 隊員=高橋登美夫(同39年卒、25歳)、節田重節(4年、21歳、同40年卒)、姚正雄 (4年、21歳、同40年卒) |
行動概要
ナショナル・パークのレンジャーから派遣されたガイド2名と佐藤隊長以下4名はハミテージにあるニュージーランド山岳会(NZAC)のアンウィン・ハット(ハット=小屋)を出発、モレーン上を7時間かけて登り、ハースト・ハットに入る。ここでNZACのクーパー氏、フーバー氏と合流。
午前9時、クック山の攻撃基地となるタスマン氷河上のプラトー・ハットに着く。午後からガイドや案内役の2人から技術講習を兼ねクックを偵察。
快晴だが強風の中、4時に出発、急峻な氷河を詰めコルに出る。ナイフリッジと岩場がミックスするリッジを3時間登ると雪稜に出た。しかし、風が一段と強くなり、高橋とクーパー氏、フーバー氏の3人パーティは途中から引返す。佐藤、節田とガイド・パーティは登山を続行、マウント・ディクソンに登頂した後、プラトー・ハットに引返す。
午前1時30分、プラトー・ハットを出発。この日はフーバー氏に休んでもらい、ガイド2名、佐藤・節田、そして高橋・クーパー氏の2人編成3パーティで行動する。ヘッドランプを頼りにガイド・パーティが先導し、アイスフォールやクレバスを避けながら登り、薄明るくなったころクックの真下に出る。
ラッセルに苦しみながら主稜線に出ると、岩と氷の尾根の苦しい登高が続き、頂上直下500mの雪原に出る。午前9時30分になったとき、ガイドとクーパー氏から「この状態だと頂上までは5時間かかる」と言われ、なおかつアイスハーケンの数も足りず、時間的に無理と判断して引き返す。下山途中、クーパー氏がクレバスに落ち、1時間がかりで引き上げるアクシデントが起きた。午後4時、プラトー・ハットに着く。ここで今後の行動を検討した結果、食糧が1日分しかないことから、アタック続行を断念する。
風雨の中を下り午後3時、ボール・ハットに到着し登山を終了。
「親善登山隊」誕生の経緯
これまで単に「明治大学ニュージーランド遠征隊」と表記していたが、正式名称は「明治大学体育会山岳部ニュージーランド親善登山隊」である。
64年10月1日に発行された「明治大学新聞」に、「本学体育会山岳部(部長・渡辺操文学部教授)は、今月末ニュージーランドに親善登山隊を派遣し、同地のクック山登頂とその周辺の踏査を試みる。(中略)これは昨年ニュージーランドと日本の交歓登山の話がノーマン・ハーディー氏の紹介で同国山岳会と本学山岳部の間でまとまったもので、既に今年の1月トニー・フーパー氏が来日して山岳部員と八方尾根と富士の登山を行なっている。今度の遠征には同国山岳会が全面的に協力してくれるので、かなりの成果が上げられるものと期待されている。(後略)」とある。
文中に出てくるノーマン・ハーディ氏は、55(昭和30)年の英国登山隊(チャールズ・エバンス隊長)の副隊長を務め、自ら世界第3位のカンチェンジュンガ(8586m)に登頂、その後、ニュージーランド山岳会の名誉書記となる。たびたび来日し、親日家の彼は日本山岳会に親善登山の計画を持ち掛けた。そこで日本山岳会は本学山岳部を推薦、交歓登山の運びとなった。
初の学生海外合宿となった第1次隊
佐藤大吉を中心に、ニュージーランドの山の研究とクックの具体的な登山計画が練られた。南半球にあるクックは夏季(12〜2月)でも大量の積雪があり、標高2000mを超えると氷河帯となり、南極大陸に近い気候風土を持っている。
コーチ会は、飽くまでも冬山合宿の1パーティと考えて派遣することに決めていた。そこで、国内では経験できない氷河地形での登山活動を通じ、登攀技術や氷雪技術の向上を図り、併せて登山の視野を広めるという目標を掲げた。隊長は炉辺会幹事長の要職にあり、コーチ経験がある佐藤大吉に白羽の矢が立った。隊員は卒業間もない高橋登美夫と現役学生から節田重節と姚正雄の2人が選ばれ、当初の計画より2名少ないメンバーとなる。
佐藤隊長以下4名の若い隊員たちは10月24日、オリエンタル・クィーン号で横浜港を出港、約1ヶ月近い船旅の末、11月18日、ニュージーランドのオークランド港に着く。現地でトニー・フーパー氏の出迎えを受け、荷物の手配から交通の予約、買物まで面倒見てくれ、登山隊が帰国するまで全てに同行するという熱の入れようだった。
11月20日、首都のウェリントンからクライストチャーチに移動、ここで著名な登山家ノーマン・ハーディ氏の手厚い歓迎を受けた。24日から3日間、アーサーズ・パスでトレーニングを行ったが、悪天候で2000m足らずのマウント・キャシディに登っただけで終わる。28日からは急峻なフランツ・ジョセフ氷河に入り、初めての氷河歩行を体験する。
このときも雨が降ったりやんだりの天候で、トレーニングは捗らなかった。12月1日は晴れとなり、アイスフォール地帯を6時間かけて乗り越え、アルマー・ハットに入る。しかし、雨や吹雪の不安定な天候で12月4日、縦走を断念し下山、西側からのクック登頂一本に絞ることにした。
12月8日からクックへ登山を開始したが、その行動概要は前記の通りで、登頂は叶わなかった。佐藤隊長によると、ニュージーランドの登山者はジッヘル(確保)にやかましく、かなり良い状態でないとコンティニュアスでは登らず、時間がかかったという。氷河やクレバスが多いニュージーランドでは常識で、アイスハーケンの数にも注意を払い、登山の安全に対する意識や対応に学ぶべき点が多かった。
また、高橋登美夫は、「残念だった。だが、世界的氷河をこの足で踏んだことは、ヒマラヤへの教訓になった。とくに頂上直下でもダメなときはダメという山の厳しさを知ったことは、貴かったと思う」と語り、OBを含め学生たちは南半球の異国の地で貴重な体験を積み、学生海外合宿の草分けとなった。
なお、クックはこの当時、標高は3764mだったが、1991年11月14日に山頂が崩落し、10m低くなった。その後、山頂付近の厚い氷がさらに崩落して、2014年に標高3724mと修正された。ここでは修正前の標高とした。
- 『炉辺』第8号(1980年2月発行)佐藤大吉「第1次ニュージーランド遠征―1964年」