明治大学マッキンリー登山隊
活動期間 | 1960(昭和35)年4月〜5月 |
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目的 | ウェスト・バットレスからのマッキンリー(南峰6190m)登頂。 |
隊の構成 | 団長=山岳部長・渡辺操 山岳班長(隊長)=交野武一(昭和8年卒、51歳) 隊員=高橋進(同28年卒、29歳)、金澤恒雄(同28年卒、29歳)、藤田佳宏(同30年卒、27歳)、東真人(4年、24歳、同36年卒)、小林孝次(4年、22歳、同36年卒)、三室喜義(3年、21歳、同36年卒)、土肥正毅(3年、21歳、同37年卒) 報道班=片柳英司(読売新聞記者、31歳)、鈴木金次郎(読売新聞写真部、36歳)、高木真(日本テレビ映画部、32歳)、松田忠彦(東映撮影技師、33歳 |
行動概要
タルキートナから飛行機でカヒルトナ氷河に降り、2440mにBC建設。
カヒルトナ・パス(3120m)に攻撃基地となるC1建設。この後、11日間も吹雪となり登山活動に大きな支障をきたす。
氷河を挟んでウェスト・バットレスに向かい合うウィンディ・コーナー(3900m)にC2建設、ここをアタックのための前進キャンプとした。
ウィンディ・コーナーを抜け、ウェスト・バットレスの氷壁直下の4550mにC3建設。アタック要員の高橋、藤田、三室、土肥の4名が入る。
ウェスト・バットレスの斜度35度から45度の氷壁に300mのザイルを固定、ルート工作を終える。
第1次アタック隊の4名は9時30分にC3を出発、C4へのルート偵察に向かう。氷壁を1時間半で登り、デナリ・パス直下のC4予定地に着く。さらに上部偵察に向かい、北峰と南峰をつなぐ最低鞍部のデナリ・パスに到達。北側からのブリザードが激しい中、頂上まで700mと迫る。北極圏に近いため白夜で明るく、体力の余裕もあり南峰に向かう。急斜面の稜線をたどり19時50分、マッキンリー南峰に日本人として初めて登頂する。C3帰幕は6日の深夜1時半となる。
ウェスト・バットレスを越えた5150mにC4建設。翌10、11日は停滞。
デナリ・パス(5450m)にC5建設、高橋と小林が入幕。
C5に入った高橋と小林は午前中、ブリザードが激しく天気待ちした後、ブリザードがやんだので北峰に向かう。19時、マッキンリー北峰(5934m)に登頂。
C5から高橋と小林はマッキンリー南峰に登頂、2人用のテントを張り頂上で幕営する。一方、C4から金澤、東、三室、土肥の4名はC5を撤収、そのまま南峰に登頂し、その後C4へ帰幕。
マッキンリー南峰に泊まった高橋と小林は、記念に頂上にテントを残し、C3まで下る。残りのメンバーはC4を撤去、C2へ下降。5月16日全員がC1に集合、下山準備。
C1を撤収、飛行機でタルキートナに着き、登山活動を終える。
マッキンリーへの道のり
山岳部長の渡辺操先生(「山岳部長人物史」参照)から「1960(昭和35)年に本学は創立80周年を迎えるが、山岳部で遠征の計画はないか?」という打診があった。交野武一・炉辺会長は渡りに船と考え、早速OBを招集し遠征プランの作成に着手した。そこで候補に挙がったのが、アラスカにある北米大陸最高峰マッキンリー。交野はその計画を渡辺部長に提案した。
山岳部のマッキンリー遠征が本学の記念事業に採用されるか不透明で、なおかつマッキンリーに関する資料は皆無という有様だった。そこで交野の友人で、アラスカのパルプ工場に勤める三宅欣寿氏を窓口に、地図や資料などの送付を依頼する。さらにアメリカ大使館やノースウェスト航空にも問い合わせた。そうしたとき、アラスカを隈なく旅行したことのある東良三氏を知る。そこで彼からアラスカの詳しい話を聞き、ボストン科学博物館のブラッドフォード・ウォッシュバーン氏が出版した書物などを教えてもらった。
その一方、渡辺部長は大学側が単なる登山計画だけでは資金を出し渋るのではないかと心配、さらに海外渡航の外貨割り当てを考えると、マッキンリー登山は困難ではないかと悩んだ。そこで登山計画を学術調査計画に包含するプランにリニューアルする。結果、渡辺部長のプランが採用され、「明治大学創立80周年記念アラスカ地域総合学術調査」が決定する。交野たち山岳部・炉辺会側は海外登山一本でいきたがったが、形はどうあれ戦後初めての海外登山が実現できる機会を、みすみす逃したくなかったというのも本音だった。
1959年9月、OBの後藤大策がタイミング良く商用で渡米することになり、足を延ばしてアンカレジに出向き、タルキートナからベースキャンプまでの輸送と物資の補給を予約する。さらにボストンに回ってブラッドフォード・ウォッシュバーン氏を訪ね、最新情報と資料の入手を依頼する。結果、ウォッシュバーン氏から未完成の5万分の1のマッキンリー地図と写真を分けてもらい、具体的な登山プランの作成に入った。
隊長問題、そして出発まで
同じ年の9月、「アラスカ学術調査企画委員会」が開かれ、「山岳班」の計画を円滑に推進するべく「山岳班実行委員会」が設置される。10月に隊員選考を行い、隊長を除く7名の遠征メンバーが決まる。交野は初めての海外遠征の隊長に、経験ある大塚博美が最適と考えていた。ところが、学術調査を後援する読売新聞社と大塚の職場(日本教育テレビ:テレビ朝日の前身)の関係で無理となり、なおかつ大塚は勤め先の仕事で雪男探検隊に加わることになる。そこで交野は仕事や体力の問題もあったが、未経験者ばかりでは不安もあり、隊長を引き受けることになる。
3月16日、隊荷の輸送を確認する交野隊長と高橋の2人は、学術調査団の先発隊として羽田空港を出発、シアトルで輸送貨物の通関業務に赴き、さらに陸揚げしてから登山基地までの陸送に当たった。4月5日、山岳部長の渡辺先生を団長に金澤、藤田OBと学生隊員の東、小林、三室、土肥の山岳班と報道班を含む総勢12名がアンカレジに向かった。
マッキンリー登山を終えて
戦後初めてのマッキンリー遠征は、全てが初体験という手探り状態の中から始まった。隊長の任を負った交野武一は登山を終えて、「ここにわが部第1回の海外遠征登山はマッキンレー山、南、北登頂を実行して終った。行動中、事故もなく目的を果たせたことは、省みていつに幸運の一言につきる。しかしながら全行動について反省してみると、登山行動については薄氷を踏むような思いを禁じ得ない。(中略)一本立ちになって次のステップに踏み出すためには、まだまだ精進を続けねばならないことを痛感する」と振り返った。
また高橋進は『炉辺』第7号の「あとがき」に、「ともあれアラスカ遠征までは猪突猛進、“めくらヘビに怖じず”の山登りの繰返しであったと言ったら言い過ぎだろうか。そう考えてみれば、これから15年後の将来に振り返ってみたこのアラスカ遠征の価値が、どんな型で表われているか〜表わすかと言った方が正しいかもしれないが〜はアラスカに行った仲間はもちろん、私たち若い仲間の全ての上に課せられた大きな義務であり宿題であろう。しかも、それは決して苦しいことや不快なことだけに満ちているのではなく、必ずや私たちに限りない山登りの喜びを与えてくれるに相違ないからだ」と書き留めた。
戦後初めてのマッキンリー登山隊は、学術調査団の中に組み込まれた小さな“山岳班”であった。しかし、その後のヒマラヤ高峰に挑む大きなステップとなった。
- 『岩と雪』6号(1959年11月発行)大塚博美「アラスカの地域における学術調査並びにマッキンレー山群登山計画
- 『創立80周年記念アラスカ学術調査団報告書』(1960年11月発行)
- 『炉辺』第7号(1962年3月発行)「マッキンリー登頂―1960年」