台湾遠征偵察隊
活動期間 | 1939(昭和14)年7月〜8月 |
---|---|
目的 | 積雪期に挑む本隊の山域を偵察、および現地状況の情報収集。 |
隊の構成 | 隊長=山崎善郎(学生、昭和16年卒) 隊員=山下格也(学生、同16年卒), 小島孝夫(学生、同16年卒) |
行動概要
山崎と山下は駐在所の巡査部長とタイヤル族の人夫6名を伴う総勢9名で、イザワ山(3342m)から大覇尖山(たいはせんざん)を経由し次高山(つぎたかやま)まで縦走。
8月1日に山崎は小島と合流しエボシ山を通過、夕方に鳩の沢温泉に着く。人夫の都合がつかず、結果的にビナヤン越えで打ち切る。
山崎と小島は12日から本格的な登山活動に入り、13日11時、新高山(3952m)に登頂、14時過ぎ八通関(3273m)に着く。
朝7時に駐在所を出発、7時50分に合歓(ごうかん)主山(3714m)、8時50分に合歓東峰(3421m)に登り、偵察山行を終える。
台湾遠征本隊
活動期間 | 1940(昭和15)年3月〜4月 |
---|---|
目的 | 積雪期の合歓主山、合歓東山と奇莱主山連峰の登頂。 |
隊の構成 | 隊長=小国達雄(4年、昭和16年卒) 隊員=山崎善郎(4年、同16年卒)、松永豊(3年、同17年卒)、寺島鉄夫(3年、同17年卒)、北脇通男(3年、同18年卒) 随行=山岳部長・末光績先生 |
行動概要
宿舎を10時半に出発、11時30分に合歓主山(3714m)、13時に合歓東山に登り16時前に宿舎に帰る。しかし、人夫の集まりが悪く27日は停滞、付近の山でスキーを楽しむ。28日にようやく人夫12名が揃う。
宿舎を出発、奇莱主山北峰(3607m)の下3300m地点にテント2 張を設営。夜半から暴風雨となりテント内に浸水、人夫のテントも飛ばされそうになる。そのため人夫 6 名は直ちに下山してしまう。30日は
暴風雨で停滞
夜来からの雷雨で被害が出て、やむなくテントを潰し、10時過ぎに尾根下の狩小屋へ緊急避難する。隊員5名、人夫6名の11名で小屋は超満員となる。
狩小屋を9時に出発、10時半に北峰下の野営地に着く。ここで野営地の後始末と北峰(3607m)アタックを小国、寺島、北脇が担当、山崎と松永に人夫2名を加えた4人は奇莱主山(3559m)へ縦走に向かう。旧能高越に出て山崎たちは奇莱主山南峰下の狩小屋に入る。
朝 9 時に合歓山駐在所を出発、合歓越えをして花蓮港へ下山。
初めての遠征に向け情報収集と準備
各大学山岳部は朝鮮や台湾をはじめ千島、樺太など外地の山々に挑んでいった。これに呼応するように1939(昭和14)年に入ると、山岳部でも海外登山の気運が芽生え、内地外の山に候補を絞った結果、台湾遠征を計画する段階に入った。そこで参考にしたのが神戸高商山岳部(神戸大学山岳部の前身)の台湾計画であった。
神戸高商は34(同9)年に第1次台湾遠征、36(同11)年に第2次遠征と二度遠征していた。山崎は「当時、部として一歩一歩の実績を積み重ねていかなければならない実情にあったが、折よく神戸商大のパーティーによる南湖大山、中央尖山を主体とした記録の恵送を受けていたので、それを参考として計画実施したのである」(「炉辺通信48号」)と綴る。
そこで偵察に向かう山崎は、もっと情報が欲しいと永田一脩氏(画家で写真家)からの紹介で、台湾の高峰を踏破した山岳写真家の岡田紅陽氏を訪問する。岡田氏より様々なアドバイスを受け、さらに台湾山岳会の知人まで紹介してもらう。当時、著名な写真家や画家たちは渡台し、活発な創作活動をしていた。山崎たちはできる限りの情報収集を終え、台湾で開業医をしている山下格也の父親宅を現地連絡場所とし、偵察メンバーは台湾に赴く。
偵察隊というよりは第1次遠征隊
こうした台湾の事前情報収集に山岳部長の末光績先生(「山岳部長人物史」参照)が一役買ったと思われる。末光部長は当時、日本山岳画協会のメンバーで、足立源一郎(神戸高商の第2次台湾遠征に同行)画伯や永田氏と接点があったと思われる。
また、末光先生は学生たちの台湾遠征に懸ける熱い想いを知り、大学側に遠征資金の援助を懇願したのではないだろうか。結果的に本学創立60周年の記念事業に組み込まれ、本学初めての海外登山が実現することになった。
山崎隊長の偵察隊は翌年の積雪期登山の偵察が主な任務であったが、“偵察隊”というよりは“第1次遠征隊”的な登山隊であった。渡台期間中4つのクールに分けた計画で行動した。
第1クールは「大覇尖山・次高山・シカヤウ大山(3364m)縦走」、第2クールは「ビヤナン越え」、第3クールは「新高山、八通関越え」、そして第4クールは「合歓越え」と、約1ヶ月にわたり広範囲に偵察山行を続けた。
明大山岳部にとって海外初陣
翌1940年3月18日、後発する末光部長を除く小国達雄隊長率いる本隊一行5名は、神戸港から台湾に向け出航、21日台湾に着く。しかし、予定の人夫が揃わず3日間足止めを食い、29日から本格的な活動を開始する。
本隊の行動は前記の行動概要にある通り、合歓主山(3714m)、佐久間峠、東峰に登ったが、29日の暴風雨でタイヤル族人夫のテントが吹き破られ、隊員用のカマボコ型テントも水浸しに遭うアクシデントに見舞われる。
4月1日は入山以来初めての好天となり登山を再開、山崎と松永は奇莱主山(3559m)を越え、小雨の中を能高越に出て4日、合歓山駐在所に戻る。
一方、小国、寺島、北脇の3名は奇莱主山北峰(3607m)に登る。初めての台湾遠征は島特有の不安定な気候に遭遇し、さらに時節柄、食糧の米の入手が困難となり、計画通りの登山が遂行できず4月25日、帰京した。
このように異国の地での登山は国内とは大きな違いがあり、南国台湾の山といえども並大抵の苦労ではなかった。人夫や食糧の調達の難しさをはじめ、風雨に対するカマボコ型テントの弱さを体験、反省材料は少なくなかった。
こうした苦い経験を踏み台に、その先にあるヒマラヤに夢は広がった。部員の中には、ヒマラヤを目指して個人装備を着々と準備する動きも見られた。
しかし、一方で部員たちの脳裏には「戦争」という暗雲が漂い始めていた 。
なお、この台湾遠征の偵察隊に参加した小島孝夫と本隊に選ばれた松永豊の2人は、太平洋戦争で戦死、ヒマラヤへの夢を果たすことなく戦火に散ってしまった。
『炉辺』第7号(1962年3月発行)山崎善郎「台湾遠征の思い出」