本記事は炉辺会(明治大学山岳部OBOG会)の機関誌『炉辺11号』 (発行日:2023年6月1日)の「歴代山岳部部長人物誌」をWeb版として再掲載したものです。
私たちは「山岳部長」になられた担当教授の皆様を、親しみを込め「部長先生」と呼んでいる。授業や教務でお忙しいなか、部員会や合宿検討会、送別会をはじめ、炉辺会の各行事にもご出席いただき、助言や励ましの言葉をいただいてきた。
明大山岳部は時代の移り変わりの中で多くの部長先生と出会い、そのときそのとき、厚い信頼の絆で固く結ばれてきた。あるときは教授と学生、またあるときは父と子、そして、部長と部員という不朽の関係が存在した。身近に教わった担任教授を語るのではないが、100年にわたる部長先生、すなわち恩師群像を綴ることは、創部以来、部長先生たちが歩んで来られた足跡であり、我が山岳部と強固に重なり合う歴史でもある。
私たちは山岳部に入部し、そのときどきの部長先生と出会ってきた。まさに運命的な出会いと言える。山岳部100年の歴史で15名の部長先生と出会い、数々のご支援はもちろん叱咤激励を受けてきた。これまでのご功労に感謝の言葉を捧げ、ここに山岳部長先生の足跡を創部百年誌に留めたい。
初代山岳部部長 大谷 美隆 (1922年8月~1924年3月)
– スイス・アルプスの話を部員たちに語ってくれた先輩部長 –
明治大学に誕生したばかりの山岳部に、山岳部長として初めて就任した先生は、同窓の先輩である大谷美隆(おおたたに よしたか)氏である。明治大学山岳部は、1922(大正11)年 6 月16日に学友会体育部の補助部として認められ、部活動をスタートさせた。しかし、山岳部を担当する部長先生は、大学側からすぐには派遣されなかった。
留学を終え1922年 7 月に帰国した大谷先生は、母校の法学部教授に就く。ちょうどそのころ、創部されたばかりの明大山岳部は部長が空席となっていた。そこでヨーロッパ・アルプスに囲まれるスイスから帰国したばかりの大谷先生が、誕生間もない山岳部の部長に最適と、大学側が先生に要請したのではないだろうか。このとき先生はまだ若干28歳、山岳部員たちから見れば兄貴分のような年齢で、若々しい部長の就任となった。
さて、明治大学山岳部の機関誌『炉辺』第 1 号の「記録」欄に、1922年10月14日、夏期山行の報告会に大谷部長が出席、留学先のスイスで体験した山登りの話を部員に語ってくれたことが載っている。おそらく大谷先生はベルン大学の余暇活動などで、先生に引率されて近くの山に登ったり、また、学生同志のグループで近くの山歩きに出かけたのではないだろうか。そうした話を山岳部長に就任して 2 ヶ月後に、早くも部員たちに披露してくれた。本場アルプスの話を聞いた部員たちは、羨望の眼差しで聴き入ったことだろう。そして、遠い異国のアルプスの山並みに夢を馳せたに違いない。
大谷先生が山岳部長に就任した翌年の1923(同12)年 2 月 1 日、山岳部の専用部室が確保され、 2 月20日に学友会の全委員会において、学友会体育部の補助部から正式なクラブとして認可される。ところが、着任して 1 年後の1923年 9 月 1 日、関東大震災が起き、大谷部長は甚大な被害を受けた母校の再建に取り組まざるを得なかった。そのため山岳部に関わることは少なくなり、やがて山岳部長に留まることができなくなってしまった。
大谷先生が山岳部長を辞してから 4 年後の1928(昭和 3 )年 6 月13日、再建された明治大学記念館の講堂で、慶応義塾大学山岳部OBの槇有恒氏を招いて講演会が催された。実はこの槇氏を招聘し、講演会を開いてくれたのは大谷先生であった。山岳部長を退任してからも山岳部の活動を見守り続け、道半ばで離れた山岳部のため何か役立つことをしてあげたいと思い続けていたのだろう。この講演会の後、槇氏と部員、OBを囲んでの夕食会まで設けてくれた。改めて本学の先輩で、初代山岳部長に就いた大谷美隆先生の心温まる配慮に胸を打たれる思いである。
この講演会が催された翌1929(同 4 )年、法学部教授の大谷先生が精魂傾けた「明治大学刑事博物館(現・明治大学博物館刑事部門)」が開設され、私学におけるユニバーシティ・ミュージアムの先駆けとなった。創部されて間もない明大山岳部は、“部長と部員”という垣根を越え、“先輩と後輩”、“兄貴と弟”という固い絆で歩み出した。
第2代山岳部長 神宮 徳壽 (1924年4月~1926年5月)
– 哲学的に山岳思想を説いた指南役 –
神宮徳壽(じんぐう よしとし)部長は、大正末期から昭和初期にかけ、明大山岳部の草創期に大きな足跡を残した。山岳部長に二度も就き、また、初代の炉辺会長も務めるなど、我が山岳部の部史を語るには、欠くことのできない山岳部長である。
神宮先生が登山や山に傾注する切っ掛けを作ってくれたのは、父君の職業(神社の神官)にあったようだ。先生は山岳部が創部される前年の1921(大正10)年 9 月、日本山岳会に入会している(会員番号791番)。当時の日本山岳会には、明治大学の 2 代目校長(大正 9 年の大学令で初代の学長)となる木下友三郎氏(会員番号11番)がすでに入会していた。日本山岳会の創立当時に入会した木下氏は1921年 6 月、学長を辞め、1924(同13)年12月に名誉顧問に就いている。木下氏は日本山岳会の会報や会員名簿で、本校の予科講師である神宮先生が、日本山岳会の会員であることを知っていたと思われる。
そこで元学長の木下氏は次期山岳部長に、日本山岳会の会員でもある予科講師の神宮徳壽先生を推薦したのではないだろうか。1924年 4 月、大谷部長の後任として34歳の神宮先生が就任する。この当時の山岳部は創部されてまだ 2 年後で、部活動はじめ未熟な面が多かった。その最中に関東大震災が起き、部室は消失、テントやスキー用具をはじめ山岳書籍などを失い、部の再建に取り組んでいた。さらに追い打ちを掛けるように山岳部創設者の米澤秀太郎が急死、精神的な支柱を失い、山岳部は最悪の状態にあった。
そうした折、登山に造詣の深い神宮先生が就任し、部員たちは期待に胸を膨らませたに違いない。機関誌『炉辺』を紐解くと、部員会や卒業生送別会 のみならず山行にも参加、部員たちに寄り添う神宮部長の姿が読み取れる。神宮部長のニックネームは「苦素」である。その由来は先生が玄米食を食し“ 1 尺くらいのクソが出るのが健康体だ”と部員に話したことから「苦素」と名付けられた。記念すべき『炉辺』第 1 号(1924年12月発行)に、畏れ多くも「苦素」という渾名で執筆している。それは部員たちに寄り添う気持ちを込め、肩書の「部長」ではなく「苦素」という渾名をわざわざ使ったのだろう。この記念すべき『炉辺』第 1 号は、当時の山岳部員の熱い想いが結集し創刊された。それだけに神宮部長が寄稿してくれたことは部員たちを励まし、この寄稿文によって神宮部長と部員たちの距離は一気に縮まり、結束を強める機会となった。
この当時、山岳部員であった三木文雄は神宮部長について―「予科 1 年の時から神宮教授の独逸語と哲学概論の講義を受けた。先生から時々、山の話を聞き興味を覚える様になった。ことに先生は山岳宗教に詳しいので、修験道の話、山伏の服装等についても伺いました。外国の山、日本の山、山伏の話、山の道、登山者の心得、特に自然を守るように、危険防止の話等を聞きました。独語、哲学の授業の 5 分程の間に外国の山行の話も聞きました。度々お宅へも伺いました」と述懐している。
登山以外に山岳宗教や修験道の話をしたことは、神官であった父君の影響があり、一時、御嶽教の管長も務めた神宮部長の生い立ちを知ることができる。日本山岳会の機関誌『山岳』を調べると、神宮先生は日本山岳会の小集会に何度か出席している。山岳部長に就任する前の1923(同12)年11月11日に開かれた日本山岳会の「臨時茶話会」に、当時、山岳部のリーダー的存在であった馬場忠三郎(大正11~昭和 2 年)が神宮部長と一緒に同席している。おそらく予科講師の神宮先生は、予科生で山岳部を立ち上げた馬場のことを知り、登山の視野を広げてもらおうと馬場を誘ったのだろう。
1926(同15)年 6 月 9 日、山岳部卒業生のOBで組織する「炉辺会」の発足式が催された。前月に退任したばかりの神宮先生が初代会長に就く。現役の部員ばかりでなく卒業生から、いかに敬愛されていたかがうかがえる。神宮徳壽部長は哲学的な論理で山岳論を説き、登山に励む多くの部員たちの羅針盤となって導いてくれた。
第3代山岳部長 摺澤 真清 (1926年6月〜1928年8月)
– スキー部誕生に貢献した配属将校 –
1925(大正14)年 4 月、「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、官立、公立、私立の学校に陸軍の現役将校が配属された。当時、大学では学校教練が実施され、心身の鍛練と資質向上のため体育を促進し、併せて国防能力を増進させる狙いがあった。摺澤真清(すりさわ まさきよ)少佐が明大に赴任したのは同年 8 月、42歳のころで、まさに現役バリバリの軍人将校であった。
配属された翌年の1926(同15)年 6 月、摺澤少佐は第 3 代の山岳部長に就任する。ここで配属将校が山岳部長に就いた背景を探ると、学校教練が体育促進にあることから、配属将校に運動のクラブを担当してもらい、自らの目で体育活動を視察してもらおうと大学側が考えたのではないだろうか。そこで陸軍歩兵少佐という立場を考慮すると、最もふさわしいクラブは山岳部となり、部長をお願いしたのではないかと推察する。
一方、受け入れる側の山岳部員にとっては、前任の神宮部長とは全く異質の部長というにことで、おそらく戦々恐々の気持ちであったことだろう。もしかすると、部活動は全て軍隊式に変えられ、スパルタ式訓練が持ち込まれるかもしれないという危惧が部員たちの頭の中をよぎったとしても、なんら不思議なことではない。
しかし、予想は外れ、摺澤部長の人となりに親近感を持つようになっていく。当時、部員であった三木文雄は――「当時、軍の教練がありましたので、先生宅へも行きまして、お話を伺いました。先生はスキーの平均運動は好きなようでしたが、学生のスポーツマンが絵ハガキになる事は、大嫌いな方でした」と回想している。摺澤部長は今風に言えば“アマチュア精神”を信奉していたと言える。また、柿原雄太郎は―「摺澤部長は立派な軍人であると共に、私たち学生とも、部員とも親しく良く相談にものってもらった」と振り返っている。摺澤少佐はいろいろな悩みなどをオープンに相談できる部長で、あまり軍人らしい威厳を見せることなく、気さくに接してくれたようだ。
ここで摺澤部長が山岳部に残した功績に触れなければならない。その一つに、国内の山々に登る山岳部員のため「地図」に関する指導を行っている。学校教練の中に「距離測量」とか「測図学」が組み込まれていたが、この当時の地図は、陸軍の参謀本部直轄の陸地測量部が作成していた。摺澤部長は奥深い山々に登る山岳部員のため、地図の活用術や山岳地形の見方などを教えてくれた。1926(同15)年度の部日誌に―「 6 月 8 日 新旧部長送迎会を五車堂に催す。会する者数十名、新部長摺澤少佐の地図についての説明あり、神宮部長は、在任当時の所感等話せる」とある。初対面となる山岳部員の前で「地図」について語っている。軍事教練などの固い話より、身近なテーマを選んでくれたようだ。
そして、地図の説明を行った 2 週間後、今度は部員たちを実際に陸地測量部に案内している―「 6 月23日 陸地測量部見学、米山大尉の懇切なる説明あり。参加者部長外廿名」と同じ部日誌に明記されている。陸地測量部は、当時としては機密性の高い軍事部門であったが、陸軍将校という立場を活かし、山岳部員たちを案内してくれたのだろう。
さらに摺澤部長を語るには、忘れることができない大きな働きがある。当時、山岳部内にスキー競技班が内在し活動していた。スキー競技班の面々は、強豪校と戦うため“スキー部”として早く独立したいと切望していた。
競技班メンバーが摺澤部長に相談すると、早速、部長は両者とOBを集めて会議を開き、山岳部からスキー競技班を分離する件を諮った。結果、円満にスキー競技班が独立するという英断を下してくれた。課題を先送りせず、解決に向け果敢に行動する、まさに軍人らしい摺澤部長の姿がそこにあった。 1928(昭和 3 )年 8 月、明治大学で 3 年間の配属期間を終え、摺澤真清少佐は千葉県の佐倉連隊区へ異動する。
明大山岳部の歴代部長の中では異色の部長であったが、軍人としての律儀さ、そして、何よりも一人の人間としての誠実さ、実直さに当時の部員は親近感を抱いた。摺澤少佐には、大正から昭和という新しい時代にかけて山岳部長を担当していただいた。 2 年 2 ヶ月と短い就任期間であったが、自ら先頭に立って様々な尽力をいただき、配属将校の摺澤真清部長が山岳部に残してくれた功績は決して小さくはなかった。
第4代山岳部長 神宮 徳壽 (1928年9月~1932年4月)
– 二度にわたり山岳部を牽引してくれた岳人教授 –
配属将校・摺沢部長の異動命令は、陸軍から事前予告がなかったためか、大学側は急遽、後任の山岳部長を決める必要性に迫られた。イレギュラーのタイミングであったため、経験者でもある前任の神宮徳壽先生に再度就任を要請したと思われる。山岳部長に二度就任したのは、神宮先生だけである。二度目の部長になった先生は38歳となり、最も脂の乗る年齢を迎えていた。
神宮教授が山岳部長に復職した 2 年後、1930年 2 月に早稲田大学山岳部(会員番号1150)と法政大学山岳部(会員番号1155)が、相次いで日本山岳会に入会した。当時の山岳部員から神宮部長に入会要請があったのか分からないが、1930(昭和 5 )年 5 月に、明大山岳部は日本山岳会に入会(会員番号1180)する。そのときの入会代表者は神宮先生となっている。早大と法大の入会を知った神宮部長は、遅れまいと自身が代表者となり、明大山岳部の入会を申請したのではないだろうか。
時代が昭和に入ると、本学の震災復興工事は大きく動き出す。1930年 2 月に待望の体育館が完成、体育館の地下に立派な山岳部の部室が割り当てられた。ようやく部活動の拠点が設けられ、部員の活動意欲も一層高まっていった。こうしたなか、山岳部は新たなステージに向かって動き出す。1928(同3 )年度のキャプテン宮前金三郎をはじめ、翌1929年度のキャプテン小澤利一郎が部を牽引する。また、1930年 3 月に白馬岳から唐松岳まで積雪期初縦走を成し遂げた交野武一が活躍する時代となり、山岳部は世代交代の時期を迎えた。
最初の部長就任時と違い山岳部は発展を遂げ、部員たちの登山意欲も向上し、神宮部長が何かとサポートする場面は少なくなった。成長した山岳部の活躍を目のあたりにし、先生は頼もしく思ったに違いない。ところが、こういう上昇ムードのときに限って得てして落とし穴が待っていることを、歴史は冷淡にも教えることがある。
1931(同 6 )年 7 月22日、山岳部員ではないが、初めての死亡遭難が起きる。この年度の夏期山行は、10班による分散登山を実施した。そのうち第9班の藤井運平、坪井芳太郎、渡辺長三郎の 3 名に、案内人の牛田佐市(当時 52歳)を加えたパーティは、南アルプスに向かった。増水した小渋川を徒渉中に牛田が転倒して流され、死亡してしまった。牛田は“南アルプスの主”と言われた名案内人で、多くの部員たちを世話した。炉辺会は初めての山岳部遭難に対処しなければならなかった。 7 月30日、山梨県駒城村の故牛田佐市の実家で告別式が執り行われ、大学を代表し神宮部長が弔問に参列している。
この遭難の翌1932(同 7 )年 4 月、神宮先生は山岳部長を辞する。ようやく肩の荷が下りたのか、夏休みにご家族 3 人で上高地の明大小屋を訪れ、親子水入らずの山登りを楽しんだ。それから 7 年後の1939(同14)年 1 月21日、心臓弁膜症で48歳の生涯を閉じる。天命なのか、ご自身の誕生日に永遠の眠りについてしまった。先生は亡くなる10日前まで、普段どおり明大予科でドイツ語をはじめ論理学や心理学の授業を行い、病に伏してわずか 1 週間後に旅立ってしまった。突然の訃報がキャンパス内に伝わり、山岳部の部室にも悲報がもたらされた。 1 月23日に行われた告別式には、多くの山岳部員はじめ炉辺会員が参列、数々の薫陶をいただいた神宮徳壽先生を偲んだ。
改めて神宮徳壽部長の足跡を振り返ると、第 2 、第 4 代合わせ 5 年半、山岳部長を務められ、さらに初代の炉辺会会長にも就いた。草創期における山岳部の基盤を作っていただいた功績は、山岳部の歴史に深く刻み込まれている。
第5代山岳部長 春日井 薫 (1932年5月~1933年5月)
– 近代スポーツ発祥の地イギリスから学んだ「体育会の父」-
初代の大谷美隆部長に次いで 2 人目の大学先輩である春日井薫(かすがい かおる)先生が、第5 代目の山岳部長として就任する。先生は1923(大正12)年 4 月からアメリカのシカゴ大学、コロンビア大学、そして、イギリスのケンブリッジ大学に留学する。 3 年間の留学生活を終え1926(同15)年 5 月に帰国、明治大学商学部助教授となる。
春日井先生は体育会の様々なクラブの部長や顧問を担当、ご自身も文武両道に優れるスポーツマンであった。殊の外“学生スポーツ”には深い理解を持ち、「明大体育会の父」と言われた。その背景には、留学したアメリカやイギリスで大学スポーツの隆盛を肌身で感じる実体験があった。とりわけ近代スポーツ発祥の地イギリスでは、様々なスポーツに打ち込む学生の姿を見て、英国の騎士道精神を学んだようだ。
先生は、山岳部長に就任する 5 年前に発行された『炉辺』第 4 号(1927年 12月発行)に、「アイルランドの山の憶ひ出」という一文を寄稿している。根っから野山を歩くのが好きだった春日井先生は、山岳部の機関誌への寄稿が縁となり、部長就任につながったと思えてならない。
春日井先生は学力だけでなく、体力も併せ持つ学生を育てなければならないという強い信念から「駿台有甲会」を創る。先生の教育理念に基づいて創られたこの会は、教授とゼミ学生との交流の場となった。三木文雄は―「春日井先生は、英国留学から帰られたところで、私は銀行論の講義を受けました。先生はハイキングの好きなお方で、休日には鎌倉方面へも学生を連れて行かれました」と回想している。この「駿台あるこう会」が1936(昭和 11)年、「明治大学ワンダーフォーゲル部」と改名する。
先生が部長退任後に発行された「炉辺会会報」 3 号に「ロック・ガーデン」と題する一文を寄せている。その中に―「真の山男は、山の尊厳に凡てを委ねさる。之が我等の心持である。西洋流のアルピニズムは山から何を求めんとする。甚だしきは『山を征服する』等と言ふ言葉を使ひ、そんな気持で山に接して居る。結果は兎に角、心は大変な相違である」と述べている。先生は山と対峙するような外国の登山思想ではなく、山に謙虚に向き合う姿勢を持ちなさいと、自然を敬う登山を標榜した。
この会報の巻末に「会員消息」の欄があり、当時の炉辺会員が春日井先生の近況を次のように書いている―「春日井薫 まだ先生はお若い。35歳なり。それで米国などで勉強され、山も歩いて来られたのだから、羨ましい。今度学校の都合で部長をやめられたが、我ロバタ会員なりと自負を持って居られるところ、会員は意を強ふすといふべし。ゴルフには相変らず熱心なり」とある。この中に「今度学校の都合で部長をやめられた」という一節がある。春日井先生は大学から渡米要請が出て、急遽、山岳部長を辞めざるを得なかったのである。わずか 1 年という短い期間ではあったが、先生の心の中に“山岳部長=炉辺会員”という誇りを持ち続けていただいた。上原一郎は―「春日井先生は、常にご自分の考え方を明確に表現され、教育をはじめ経済、金融についても、また山やスポーツに対して誠に歯切れのよい一家言をお持ちでした」と述懐している。
春日井先生は山ばかりでなく、スキーにもこだわっていた。1933(同 8 )年 1 月末に、山岳部員たちと一緒に越後湯沢と谷川岳のゲレンデに 1 泊 2 日のスキー練習に赴いている。また、学部の卒業試験が終わる 2 月になると、必ずスキーに向かった。これはご自身のスキー上達のためではなく、教育上の理由からだったという。その訳は「スキーをすると、頭を下げることを覚える」という信念からだった。その心は「大学を出ても頭を下げることを知らなければ、社会に出ても一人前にはなれない。ましてや、商学部の学生は頭を下げることを覚えないと商売に失敗する」という教えだった。春日井ゼミでは「卒業論文を書いて単位が全部とれても、スキー訓練に参加しなければ卒業させない」という不文律があったという。まさに人材育成にスポーツの良い面を取り入れ、指導する教育者であった。
春日井薫先生は1981(同56)年 2 月10日、急性心不全で逝去する。享年81。この年、明治大学創立百周年を記念する「明治大学エベレスト登山隊」が世界最高峰に出発する直前だった。残念ながら、春日井先生の墓前に吉報をお届けすることはできなかった。
山岳部長としてのお付き合いは 1 年と短かったが、部長を辞してからも学内で、また、社会に出てからもお世話になった部員は数多い。
第6代山岳部長 太田 直重 (1933年6月~1934年4月)
– 山岳部長では異色の理数科教授 –
山岳部には珍しい理数系の部長先生が就任する。その人は太田直重(おおた なおしげ)先生である。予科では神宮徳壽先生の 6 歳下の後輩に当たる。太田先生は部長に就任する 1 年前の1932(昭和 7 )年 7 月31日、神宮徳壽先生から誘われたのか上高地に入り、明大小屋を訪ねている。この山旅が山岳部長に結び付く縁になったのかもしれない。
それから 1 年後、前任の春日井薫先生が所用で急遽、アメリカへ渡ることになり、後任部長として太田先生が指名されたようだ。明大に赴任して 5 年後のことである。しかし、山岳部長として在任したのはわずか10ヶ月と短命のため、太田部長に関する資料は極めて少ない。
実は太田部長は、1930(同 5 )年に創部された排球部(現・バレーボール部)の部長に就き、戦後の1950(同25)年に亡くなるまで、戦争を挟んで20年もの長きにわたり担当している。おそらく太田部長は、山岳部の次期部長が見付かるまでの暫定的な担当で、排球部長と兼任であった。そのため部員とOBが一堂に会する会合や行事には出席しているが、正部員会や部員会という学生だけの会合には顔を出していない。
当時の山岳部には山小屋建設という懸案事項があった。太田部長が就任してから 3 ヶ月後の 9 月19日に正部員会が開かれ、明大小屋建設の候補地を視察する案件が討議されている。ところが、太田部長は 1 年も経たず退任してしまい、懸案の山小屋建設を一体誰に相談したらいいのか、部員たちに焦りと不満が募ったという。このころの山岳部は前任の春日井先生といい、太田先生といい、短命で終わる不遇の時代であったと言わざるを得ない。
1950年 3 月12日、心臓麻痺で太田直重先生は急死する。享年54であった。残念ながら太田直重先生と山岳部との縁は薄かった。
第7代山岳部長 末光 績 (1934年5月~1943年5月)
– 部員から名誉リーダー章を贈られた「名誉部長」-
1934(昭和 9 )年 5 月、第 7 代目の山岳部長として末光 績(すえみつ つむぐ)先生が就任する。戦前において 9 年間という、最も長く在任した部長先生である。
先生は1924(大正13)年、東京帝国大学英文科を卒業すると、同年 4 月に明治大学に着任、英語、法学、経済の予科教授となる。この予科時代に第 2 、第 4 代の山岳部長を務めた神宮徳壽先生と出会う。末光先生は札幌農学校時代に登山やスキーをたしなんだことから、趣味が合う神宮先生を慕うようになる。神宮先生が部長在任中の1929(昭和 4 )年の夏山合宿に、神宮部長と一緒に参加している。この縁が部長就任につながったのかもしれない。山岳部を離れた神宮先生は、山岳部の部長が 1 年ごとに入れ替わる現状を憂い、登山に興味がある末光先生を大学側に推薦したのではないだろうか。末光先生はご長男を亡くされた 4 ヶ月後に、山岳部長に就いている。おそらく神宮先生が弔問で末光先生宅を訪れた際、部長就任を密かにお願いしたのではないかと思えてならない。こうした神宮先生の配慮もあってか、山岳部はようやく登山を実践する先生を迎えることになる。
ところが、末光部長が就任して間もなく、山岳部創部後初の遭難事故が起きてしまう。1934(同 9 )年 8 月11日、リーダーの針ヶ谷宗次が横尾本谷の丸木橋から転落、行方不明となり溺死する(「岳友たちの墓銘碑」参照)。この遭難から 2 週間後の 8 月26日、末光部長が参加し、遭難報告と善後策を話し合う部員会が開かれた。この部員会には故針ヶ谷と同期の田中正信以下19名、OBは高橋文太郎以下 7 名が出席する。この山岳遭難で炉辺会のショックも大きかったが、末光部長の対応に並々ならぬ熱意を感じる。
この遭難の翌1935(同10)年 3 月、文部省は冬期登山の遭難防止を図る目的で意見交換会を開く。各大学、高校の山岳部関係者はじめ山岳専門家が出席、文部省からは文部大臣官房体育課の職員が加わり、遭難防止について話し合いが行われた。山岳専門家では浦松佐美太郎氏はじめ、槇有恒氏や高橋健治氏など錚々たるメンバーが加わり、明大から末光部長自ら出席している。遭難防止に懸ける先生の決意が伝わってくる。翌 4 月、末光部長は山岳部員から「名誉リーダー章」を授与された。これまでの功績に対し、部員たちから敬意を込めて贈られたのだろう。
さて、末光部長の在任中に、部活動を後押しする 2 つの事業が動き出す。一つは山小屋建設である。各大学山岳部は昭和に入ると、積雪期の訓練ベースとなる山小屋建設に着手した。そこで山岳部でも山小屋を持ちたいと計画したが、相談の窓口となるべき部長がわずか 1 年で交代するような状況で、遅々として進まなかった。1934年に、登山を実践する末光教授が山岳部長に就任すると、当時の上級生は絶好の機会と山小屋建設の相談を持ち掛けた。そして、末光部長の尽力により山岳部待望の八方尾根明大山寮が、1935(同 10)年10月 5 日に完成する(「ゆかりの山小屋物語」参照)。
新しい山寮でスキーを楽しむ末光部長の様子について、坂本秀信は―「こんな日でも末光部長は老齢にもかかわらず、部員同様、独り離れた所で黙々と練習をされており、山寮へ帰られることをお願いしても、『大丈夫だよ』と言う返事で、ヤッケのフードをかぶって、吹雪の中を滑っておられた姿が今も目に浮かぶ」と書いている。札幌農学校で青春時代を送った末光部長は、スキーに人一倍興味があったのだろう。
ところが、再び遭難の報が先生にもたらされる。1939(同14)年 9 月、人見卯八郎が谷川岳・マチガ沢で岩壁登攀中に転落死亡する事故が起き、部長在任中に 2 人目の遭難死亡者を出してしまう(「岳友たちの墓銘碑」参照)。こうしたなかで、もう一つの計画が進められる。それは本学創立60周年を 記念する、初めての海外遠征である。台湾遠征は1939年 7 月に偵察隊を派遣、翌1940(昭和15)年 3 月から 4 月にかけ、積雪期の台湾に遠征する(「海外登山の軌跡」参照)。小国達雄隊長以下 4 名に末光部長も同行した。参加した北脇通男は――「山岳部長の末光先生は50歳を幾つか出られた年齢だったと思うが、毎日私たち20代の若者と同じペースでお歩きになっておられ、さすがだと一同感心していた。先生は油絵をお描きになるので、荷物も余計に多かったのである」と回想している。先生は異国の山を描こうと画架(イーゼル)など絵画用品を持ち込んだため、ザックが重くなってしまった。
実は末光部長はスケッチしたり、絵筆を取って風景画を描く趣味を持っていた。『炉辺』第 6 号(1936年 9 月発行)の「上高地日誌」を読むと、穂高や焼岳などの絵を描きに出かける様子が綴られている。先生は茨木猪之吉氏や足立源一郎氏、中村清太郎氏たちとともに、1936年 1 月に設立された日本山岳画協会の創立会員という、山岳画家としての横顔があった。
また、前出の北脇通男は―「当時の山岳部長は末光績先生で、ちょうど私たちの英語を担当されていた。教科書は『マウント・エベレスト』で難しかった。先生はお声も、もの静かで初夏のころは催眠術にかけられたごとく、よく眠ったものである。試験結果は落第点で、仕方なく杉並のご自宅を訪問して、お情けをいただいたことがあった。先生は山岳画家でもあり、山の油絵がたくさん掛けてあったのを覚えている」と述懐している。
長かった戦争がようやく終わる。活動を再開した山岳部は1946(同21)年 10月12日、繰り上げ卒業する助川善雄、奥谷潤之輔、古沢厳、平林重治ら 4名の送別会を本校の師弟食堂で開いた。送別会には戦後就いた小島憲部長とともに前部長の末光先生が、わざわざ会場に足を運んでくれた。戦争で繰り上げ卒業して学徒動員され、また勤労動員に赴いた当時の部員たちの卒業を見届けるため、責任を全うしようとする末光先生の姿に心が打たれる。
明大山岳部は戦後、北アルプスで積極果敢な極地法登山を展開する。1954(昭和29)年の冬山合宿が始まろうとしていた12月16日、末光績先生は永遠の旅に立たれた。この冬山合宿のB班は八方尾根から五竜岳への縦走で、奇しくも末光先生のご尽力で建てられた八方尾根の明大山寮から出発する合宿となった。戦後の学生たちが明大山寮から出発する姿を天上から見守り、遭難のないことを祈っていたに違いない。
第8代山岳部長 小島 憲 (1946年4月~1949年3月)
– 焼け野原から再起する部員を「気持ちで負けるな」とエール-
戦時下の小島憲(こじま けん)先生は、勤労動員部長として奔走していた。そのとき勤労動員に通っていた大塚博美と広羽清の 2 人は、石川島造船所で小島先生と出会う。この出会いが戦後初めての山岳部長に就任する切っ掛けとなる。
1946(昭和21)年 4 月、戦後初めての山岳部長として小島憲教授が就く。同時に再開した山岳部に20名を超す新入部員が入ってきた。同年10月に繰り上げ卒業する戦前の部員送別会が、本校の師弟食堂で開かれた。小島部長とともに前部長の末光績先生も出席、現役部員13名、炉辺会員は部員数より多い21名が集まり、さながら戦後の再出発を期す決起大会のような熱気に包まれた。
この時代の小島憲部長について、特別会員の小野幸氏は――「戦後、再スタートを切った明大山岳部の部長に就いた小島憲先生の教えは、苦しい戦後を気持ちで負けなければ、道は必ず開ける。先生の教えは登山と人生の大切な羅針盤となった」と述懐している。「気持ちで負けるな」という激励は、再建に取り組む戦後の部員たちの大きな支えとなった。
小島先生は山岳部長に就いた当時を――「戦後の混乱時で、戦前から学内体育会各部がまだ復活しないものがあり、また有名無実のものが多かった時代に、いち早く山岳部が活動を開始したが、熱心かつ指導力があり、山を愛すること人後に落ちない末光部長の後釜に私をということで戸惑ったが、大塚さんや広羽さんなどから頼まれて盲蛇に怖じず、つい受けてしまったものの、何もせず部に申し訳けないと、今でも名前だけの部長であったことを恥じている。だから歴代部長のように、こんなことをしたというような想い出はない。ただ部の皆さんがよくやって下さったというだけである。(中略)山岳部長になれとの話しがあったとき、あるいは部員諸君と共に登山の機会もあるかもしれぬとの心が動いたので、引き受けたのであるが、とても道楽半分の登山とは異なり、山岳部の本格的な登山は私には、到底無理なことがわかって、下手なことをして部に迷惑をかけてはと、部長時代に八方尾根の明大山寮にも行かなかったことを部に対して済まなかったと思っている。(以下略)〈昭和58年 3 月15日 記〉」と振り返っている。
小島先生は根っからの山好きであった。学生時代から山登りに興味を持ち、とりわけ富士山に登ったのは、本学在学中の1916(大正 5 )年 8 月というから、山岳部が誕生する 6 年も前のことである。また、1929(昭和 4 )年には、当時の山岳部長の神宮先生と後に部長となる末光先生と 3 人で、中房温泉から槍ヶ岳まで縦走している。
さらに70歳で定年退職したとき、「人生五十というから、今は二度目の二十歳。それなら成人式の記念に」というわけで、1963(同38)年 8 月、中房温泉から燕岳―西岳―東鎌尾根―槍ヶ岳―上高地と“北アルプス・表銀座コース”を 2 日間、たった独りで縦走し、周囲をアッと言わせた。小島先生は「老いらくの恋を成し遂げた感激は、永久に忘れることができない」とのちに語っている。
1980(同55)年、本学総長になっても、山に登りたいという意欲に変わりはなかった。ところが、大学側から「登山は遠慮して下さい」とお達しされる。このときのことを小島先生は―「3000メートルの登山を封じられたのが残念でしてねぇ。17年前に定年の記念にと、生まれて初めて登山靴をはいて、ひとりで北アルプスを縦走してから毎年続けていたんですが、遭難でもしたら大学の面汚しになるというので」と悔しさを滲ませた。
ここで、次の山岳部長となる泉靖一先生との結び付きに触れる。法学部政治科の学生であった小島青年は、泉靖一先生の父君・泉哲先生の教え子であった。本学は1925(大正14)年、法学部の政治科と商学部の経済科を併せ政治経済学部を創設する。この新学部の設立に泉哲先生と小島先生が深く関わった。こうした恩師・泉哲先生との師弟関係からご子息の泉靖一先生を本学に迎え入れ、のちに山岳部長に招く道筋となる。
山岳部は32年後に小島先生と再び出会う。1981(昭和56)年 2 月20日、明大創立百周年記念事業・エベレスト登山隊の出陣式が本校中庭で開かれた。交野武一総隊長以下11名の隊員が一列に並び、大学から小島憲総長、山本進一学長が門出の言葉を贈った。小柄な小島総長は凛としたたたずまいで、隊員一人一人に温かい眼差しを送っていた。静かに見守る姿は32年間というブランクを感じさせない、かつての“山岳部長”そのものだった。
それから 6 年後の1987(同62)年 5 月20日、小島憲先生は急性心不全で逝去され、94歳の天寿を全うした。戦後の最も苦しい時代に、山岳部長として大変お世話になった。「気持ちで負けるな」という、負けず嫌いの先生の励ましが、焼け野原から再起した戦後の山岳部員たちの大きな原動力になったのは間違いない。
第9代山岳部長 泉 靖一 (1949年4月~1953年3月)
– 大学山岳部出身の先生が、縁あって山岳部長に着任-
戦後復興が動き出した1949(昭和24)年、大学山岳部出身の部長先生が、明大山岳部に初めて着任した。泉 靖一(いずみ せいいち)先生は小学生のとき、父君の泉哲教授の明大から朝鮮の京城帝国大学への転任に伴い、京城の小学校に転校する。京城中学校(旧制)に進学すると朝鮮にある山々に登り始め、1931(昭和 6 )年夏に毘慮峰を制覇、翌年12月には毘慮峰の冬期登攀に成功する。
1933(同 8 )年 3 月に中学校を卒業し、 4 月に父親が教鞭を執る京城帝国大学予科に入学する。泉青年は設立されたばかりの「京城帝国大学スキー山岳会」に入り、登山に熱中する日々を送る。冠帽連山に始まり赴戦高原・遮日峰(2506m)の冬期登攀、1934(同 9 )年 3 月には、朝鮮最高峰の冠帽峰(2541m)の積雪期登攀を果たす。翌年 4 月に京城帝大の法文学部国語国文学科に進学、ここで学友会山岳部の設立に関わる。このころの泉青年は、学校へ行っても山岳部の部室に入り浸る日々が多かったという。
こうした登山活動の一方で、高橋文太郎OBのマタギ研究から影響を受けた泉青年は、朝鮮半島の火田民やオロチョン族の調査に励む。朝鮮で登山や民族調査に没頭する泉青年は、大学を卒業し 4 年間の兵役後、1942(同17)年 1 月、京城帝大の理学部助手となるが、朝鮮半島にも戦争の暗雲が覆い始めていた。
戦後、1945(同20)年12月に引き揚げてきた泉先生は1948(同23)年 4月、縁あって本学政経学部の非常勤講師となる。この年の 9 月に政経学部の専任講師、翌年 4 月には政経学部助教授に、そして、同時に山岳部の部長に就任する。この経緯について前任の小島先生は―「京城大学助教授をしていた泉靖一兄が朝鮮から引揚げてきたので、政経学部の講義を持って貰うことにした。靖一兄が生まれたときから知っていたが、温厚な泉哲先生の子に似ず、なかなか積極的で、聞けば京城大学学生時代から登山が好きで、朝鮮半島の高山名山には殆んど登らぬところはないという。早速、山岳部長になってくれと云ったら、二つ返事で承諾してくれて、私の短い山岳部長時代は終わりを告げたのであるが、その泉君も東大教授に移ったので、部長時代はそう長くはなかったように思う」と述懐している。当時、山岳部長に就いた泉先生は34歳、小島先生は56歳で、父親的な部長から兄貴分的な部長にバトンタッチされたことになる。
泉先生と明大山岳部の出会いは、実は山岳部長が初めてではなかった。先生は小学生のころ、明大山岳部の高橋文太郎とすでに出会っていた。実は泉哲先生のご家族は、高橋邸内の一軒家に住んでいた。まだ小さかった泉先生は、登山から行き帰りする高橋の姿に興味を抱いたという。泉少年は、高橋の登山と民俗調査に大きな影響を受けることになる。その高橋が在籍した明大山岳部の部長に就くとは、本人も運命的なものを感じ取ったに違いない。ここで泉部長の退任年月に触れておく。著書『遥かな山やま』の中で、「明大山岳部長を1949年から 2 年間つとめた」と書いている。しかし、「年報」第 2 号に寄稿したのは“1953年 7 月10日”の日付で、山岳部長名である。おそらく泉先生が実質的に山岳部長として深く関わったのは、就任してから 2年間の1951(同26)年ごろまでと思われる。泉先生は1951(同26)年 4 月に政経学部教授となり、同年11月、東京大学助教授に迎えられ、人類学専門の東洋文化研究所に着任する。先生が東大に移られても明治大学は政経学部の終身講師として残し、後任が見付かるまで名前だけの山岳部長を続けたのではないかと推測する。
泉先生はユネスコの調査と研究に携わり、1952(同27)年以降は在外研究のため海外渡航が多くなる。そのため山岳部の面倒を見ることができなくなり、このころから後任の山岳部長を大学にお願いしていたのだろう。一方で『炉辺』第 7 号(1962年 3 月発行)の「部日誌-昭和27年度」に「 6 月28日三輪邸にて泉靖一部長送別会」という記述がある。そこで、泉先生の山岳部長在任期間は、1953(同28)年 3 月までの 4 年間とした。
当時のリーダー平野清茂は、泉靖一部長の思い出を―「山岳部生活の中で、われわれに影響を与えたのが部長の泉靖一先生であった。先生は京城帝大山岳部の厳冬期白頭山遠征やタクラマカン砂漠にあこがれて、ご子息に『タクラ』と名付けられた話などを聞かせてくれ、これは若い 2 人の心を少なからず刺激した。冬の寒い一日、先生は 2 人を新宿の屋台へ連れて行かれ、カストリ焼酎に酔って『君たち、酒を飲まずして人生を語れるか 』と言っておられたのも、いま振り返るとなつかしい限りである。(中略)—- 経済的な苦境が続き、 2 人揃って山行に参加できず、リーダーとして資格がない、責任が持てないと悩み、幾度か退部を考えたが、その都度、泉靖一先生は『伝統は尊い。伝統を継ぐものは、なお尊い』という言葉で勇気づけられた」と書いている。酒を酌み交わしながら本音を聞こうと、酒好きな先生は平野と永井拓治の同期 2 人を屋台に誘ってくれた。部長と部員というより、まるで兄と弟という関係を彷彿させるひとコマである。
1970(同45)年11月15日、泉靖一先生は脳出血で急死する。55歳と 5 ヶ月、余りにも早い旅立ちであった。
第10代山岳部長 三潴 信吾 (1953年4月~1957年2月)
– “人の和”を説き、正義感に富んだ孤高の先生 –
1953(昭和28)年 4 月、第10代の山岳部長として三潴信吾(みつま しんご)教授が就任する。三潴先生は1937(同12)年に東京高等学校を卒業したのち、1941(同16)年 3 月に東京帝国大学法学部を卒業、 4 月より東大名誉教授の筧克彦博士研究室の助手となる。三潴先生の神道思想や憲法論は、この筧博士の影響を色濃く受けたようだ。三潴先生は筧博士の子女と結婚、まさに筧博士の直弟子となる。
先生が東大を卒業したころの日本は、まさに戦争一色となり、1942(同17)年 5 月から終戦の1945(同20)年 8 月まで従軍する。そして、1946(同21)年12月、予科講師として明治大学に勤め、1948(同23)年 5 月に予科教授、翌年 4 月から新制大学となった明治大学の法学部助教授として教鞭を執る。その 4 年後、先生が37歳のとき、前任の泉靖一先生から引き継ぎ山岳部長に就く。前任の泉部長が東京大学へ異動の話があったとき、後任として三潴先生の名前が何度か候補に上がった。泉先生は「後任の部長を三潴先生にお願いしなさい」と部員に伝えていたようだ。三潴先生は心構えができていたのか、躊躇なく山岳部長を引き受けてくれた。
このような経緯で山岳部長になった三潴先生は、孟子の名句から“人の和”を説き、部員にチームワークの大事さを訴えた。ところが、三潴先生は教員のストライキに反対し、1957(同32)年 3 月に明大を去ることになる。辞める 1 年前から、三潴先生は当時のイデオロギー問題などに巻き込まれ、法学部教授会の秩序を乱したという理由で解雇に追い込まれてしまう。山岳部関係者から見ると、なんとも複雑な気持ちになる退任劇であった。
のちに田村宏明が著わした『わが青春はヒマラヤの頂』(講談社、1965年 7 月発行)の中で、三潴部長に触れている。
「(中略)先輩たちが口にする“山登りの精神”の真髄とはなんであろうか。 30数年の伝統を培った各年代の先輩たちの心の中に燃えていた共通のものはなんであったろうか。その結晶である部のモットー“より高きに登る”とはなにを象徴するのだろうか。
未知なるものへの征服欲パイオニア・ワーク
わたしはその疑問から離れることができませんでした。そのとき、啓示のようにひらめいたのは、明大山岳部の三潴前部長の話された言葉の一部でした。『山で人が道に迷ったときには自分のわかる地点までもどるように、歴史の流れにおいても行き詰まったときには、ルネッサンスといい、ギリシャ時代といい、人間はふたたび出発点に、すなわち“自然に帰れ”ということが叫ばれた。』
わたしは登山の本質論にもどって考え始めました。(中略)」
と書いている。部活動や部の運営に悩んでいた田村の頭に浮かんだのは、新人時代の山岳部長であった三潴先生の「自然に帰れ」という言葉であった。悩み多き部員たちに、分かりやすい言葉を選び語り掛けてくれたのだろう。部長在任中に日本山岳会マナスル登山隊が派遣される。その第 2 次隊に参加する大塚博美の壮行会が1954(同29)年 1 月25日、本校の師弟食堂で開かれた。このとき三潴部長も出席し、山岳部OBとして初めてヒマラヤに挑む大塚隊員に激励の言葉を贈っている。
三潴先生は、山岳部というクラブ活動の真髄である「山登りの精神性」に強く共鳴したようだ。諸事情で1957年 3 月に明大を去り、翌月から高崎経済大学に移る。赴任した高崎経済大学に山岳部がないことを知ると、ご自身が発起人となり山岳部の創設に動く。その背景にあったのは、明大山岳部で知った「山登りの精神性」を高崎経済大学の学生にもぜひ教えたいという、三潴先生の強い想いからだった。高崎経済大学に山岳部を創設するとき、三潴先生から大塚博美はじめ炉辺会に支援や協力要請があった。結果として高崎経済大学に山岳部が新設されことを思うと、三潴先生に少しは恩返しができたのではないだろうか。
退官後はご自身で山登りを楽しんでいたが2003(平成15)年 1 月 6 日、肺炎のため逝去する。享年86。自らを厳しく律する生き方も含め、一貫した正義感や信条を持つ三潴信吾先生からは、若い山岳部員に自然に対する心構えだけでなく、人生に処する心構えまでも教えていただいた。終戦から10年が過ぎる昭和30年代を迎えると、日本の山岳界“登山の大衆化”という新しい波が押し寄せた。こうした“登山ブーム”に流されず、毅然として“原点に戻れ、自然に帰れ”と部員たちを励ましてくれた孤高の部長先生であった。
第11代山岳部長 渡辺 操 (1957年3月~1970年2月)
– 三度の遭難、二度の海外遠征と、苦楽をともにした部長人生 –
戦後初めての小島憲部長以来、久しぶりに母校の先輩が山岳部長に就く。前任の三潴信吾先生が急遽、明大を去ることになり、明大出身の専任教授である渡辺操(わたなべ みさお)先生が1957(昭和32)年 3 月に就任する。渡辺先生が山岳部長に就くやいなや山岳部史上、未曾有の遭難が起きてしまう。先生49歳の誕生日を目の前にした 3 月12日、白馬鑓ヶ岳で千葉大学山岳部の学生を巻き添えにする二重遭難が起き、明大 3 名、千葉大 2 名の尊い命が失われてしまった(「岳友たちの墓銘碑」参照)。この遭難で、初対面に近い新しい部長が真摯に立ち回る姿勢を見て仲間意識が生まれ、皮肉にも着任したばかりの渡辺部部長長と部員およびOBとの間に固い絆が結ばれた。
大塚博美は遭難現場まで来ていただいた渡辺部長について―「黒い帽子に、黒いオーバー、そしてゴム長。雪の山道を猿倉まで、大きな身体を小さくかがめ『ご苦労さまでしたね―、よろしくお願いします』と声を低めての慰めと挨拶の言葉は、私にとって、あの戦慄する思いの雪崩生還体験と、雪に埋まった 5 人の仲間の果てしなく続いた捜索—今なお寸時に心に浮かびます。『ラッコさん』のニックネームも、あの二重遭難の大捜索が続けられた基地・細野部落の民宿『やまろく』で、同じ釜の飯を食いながら、共に苦労を通じて、すっかりなじみあったから、私達の慣例に従って畏敬をこめて献上したものです」と述懐している(「ラッコ先生の想い出」より)。
ところが、渡辺部長に再び凶報がもたらされる。二重遭難から 2 年後の 1959(同34)年 8 月13日、夏山合宿で 1 年生の右川俊雄が急死、さらに同年12月24日、立山の雷鳥沢で冬山合宿中に雪崩が襲い、 1 年部員の矢沢剛が死亡するという遭難が相次いで起きる(「岳友たちの墓銘碑」参照)。渡辺先生が山岳部長に就任してわずか 3 年の間に遭難事故が 3 件発生、 5 名もの尊い命を失う最悪の事態に直面してしまった。
このように在任中、遭難という“暗の時代”もあったが、その反対に“明の時代”もあった。それは海外渡航が難しい時代に派遣された海外遠征である。一つは戦後初めてのマッキンリー(現・デナリ)遠征である。この遠征は渡辺部長の発案により“学術調査団”に“山岳班”を盛り込むことで実現、 1960(同35)年 5 月、登山隊は見事、北米最高峰の登頂に成功する。また、
1964(同39)年に「第 1 次ニュージーランド親善登山隊」、翌年には「第 2 次隊」を派遣、南半球の高峰で学生部員は貴重な体験を積んだ。
その後、本学初めてのヒマラヤ遠征となるゴジュンバ・カン登山隊が出発する。この登山隊の正式名称は「明治大学ネパール・ヒマラヤ学術調査隊」と謳ったが、諸事情により、面目を保つため渡辺部長 1 人だけの学術調査隊となる(以上「海外登山の軌跡」参照)。
1967(同42)年ごろになると、都内の大学キャンパスでは学生運動が頻発する。東大安田講堂の闘争や神田カルチェラタン事件などが続き、本校もバリケード封鎖やロックアウト状態となる。山岳部は学生運動の煽りを受け、合宿計画や準備に支障が出た。そうした最中、渡辺部長は膵臓癌を患い、都内の癌研病院に入院する。しかし、治療の甲斐なく1970(同45)年 2 月20日、他界する。享年61。
ちょうどそのころ、日本山岳会のエベレスト登山隊が世界最高峰に向かっていた。この登山隊に参加していた大塚博美は――「日本山岳会エベレスト登山の時、先生の訃報が届いた。ベースキャンプの一隅で、明大から参加した 6 名でひっそりと追悼のお線香をあげました。死者の霊が、そこここに眠るようなエベレストのベースキャンプでしたが、ラッコさんの訃報は、ひとしおの想いで私たちに迫ってきました」と書き留めている。渡辺部長時代の部員であった土肥正毅と植村直己にとっては、心痛む訃報であった。結果、植村が日本人として初めてエベレストの頂に立ち、恩師・渡辺操先生への大きな恩返しとなった。
渡辺操先生の61歳の人生の中で、山岳部長の在任期間は14年も占め、人生のおおよそ 4 分の 1 近くを山岳部に関わっていただいた。その中で連続する遭難ではご苦労をかけ、また、海外遠征では一方ならぬご支援をいただいた。渡辺部長の下で育った山岳部員は82名を数え、中途で退部した部員を含めると優に100名を超える部員の部長先生であった。
第12代山岳部長 木村 礎 (1970年4月~1981年9月)
– 3 つの約束「遭難しない、退部しない、卒業する」 –
木村礎(きむら もとい)先生は学園紛争の嵐が吹き荒れる1970(昭和45)年 4 月、前任の渡辺操先生が亡くなられて 1 ヶ月のち、山岳部長に就いた。このとき先生は、大学改革の準備委員会委員長として多忙を極めていた。実は就任する10年前の1960(同35)年、渡辺部長が大学創立80周年記念のアラスカ学術調査で長期留守にすることから、文学部の後輩教授で、なおかつ駿台史学会で一緒の木村先生が山岳部長代理を務めた。こうした縁もあり、在職中に亡くなられた渡辺部長の後任として、山岳部長就任につながったと思われる。
木村先生が山岳部長に就任して間もなくの 5 月11日、植村直己が日本人として初めて世界最高峰の頂に立つニュースが大々的に報じられ、炉辺会はじめ山岳部は歓喜に沸いた。ようやく大学問題から解放され、初めて担当する山岳部の明るいニュースに浸る間もなく、思いも掛けない“山岳遭難”という問題に直面する。1971(同46)年 9 月26日、山岳部主将の石島修一が、穂高の滝谷で転落死亡するという遭難が起きる。しかし、これで終わらなかった。再び悪夢が木村部長を襲う。石島遭難から 1 年も経たない72(同47)年8 月 2 日、夏山合宿で 3 年部員の梶川清が、北アルプスの不帰東面で滑落死する事故が起きてしまう。山岳部は 2 年連続遭難という前代未聞の事態に陥り、木村部長は失望と落胆を隠せなかった。
木村部長は登山に詳しくないので、自らの研究室の課外活動を引き合いに出し、 2 年連続の死亡遭難を起した山岳部員に遭難防止を強く呼び掛けた。この事態を重く受け止めた炉辺会が総力を挙げて指導した結果、山岳部は再建される。ところが、木村部長が退任する 2 年前の1979(同54)年 7 月、夏山合宿で 1 年部員の松本明が急死する事故がまたしても起きる(以上「岳友たちの墓銘碑」参照)。これで在任期間中に起きた遭難事故は 3 件で、 3 名の若い部員が還らぬ人となってしまった。それも全て夏山での遭難事故であり、木村部長にとってはなんともやるせない出来事となった。おそらく山岳部長を退任するその日まで、先生の頭の中から、ひとときも“遭難”という二文字が消えることはなかったことだろう。
山岳部の再建に見通しが立ったころ、炉辺会で1981(同56)年、大学創立百周年記念エベレスト遠征計画が動き出す。このビッグ・プロジェクトでは、木村部長に大学側との様々な交渉の窓口になっていただいた。部長のお力添えもあり大学側から1500万円の助成金が認められ、計画は大きく前進することになる。
11年という長きにわたり山岳部長に就かれた木村先生は、 9 月に退任する。新任の小疇尚先生との歓送迎会で木村先生は―「大学創立百周年記念事業のエベレスト遠征は、全員奮闘し頂上まであとわずかというところまで到達し、全員無事に帰って来れたということで、私もこれで晴れ晴れとした気持ちで山岳部長を離れることが嬉しく思います。私は歴史の方が専門で、歴史というのは“人”がいなければなりませんので、高い所は元来行きません。人がいるところへは随分歩きます」とユーモアを交え挨拶された。
登山には縁がなかったが、部長在任中、山との“縁”が芽生え、山岳部員や炉辺会員との“絆”は深まっていった。木村先生は部長退任後、1982(同 57)年 4 月に第 4 代の炉辺会長に就任する。部長先生がOB会の会長に就くのは、初代会長の神宮徳壽先生以来 2 人目である。1986(同61)年 3 月まで4 年間、炉辺会長を務めていただいたことから、特別名誉会員に推挙される。この間で最も大きな出来事は、植村直己のマッキンリー遭難(1984年 2月13日)であった(「岳友たちの墓銘碑」参照)。部長、会長を通じると 4 件目の遭難となり、先生には「遭難」という二文字が最後の最後まで消えることはなかった。
木村先生は山岳部長を退任した後、1988(同63)年 4 月から1992(平成 4 )年まで明大学長を務める。歴代の山岳部長で学長・総長に就くのは春日井薫先生、小島憲先生に次いで 3 人目である。この学長時代に本学創立110周年記念のチョモランマ遠征が実現する。しかし、木村学長に朗報を届けることはできなかった。2004(同16)年11月27日、木村礎先生は脳内出血で逝去、享年80。
1971年、72年に起きた連続遭難の後、木村部長は山岳部員に 3 つの心得(部長三訓)を説いた。一つは「遭難を起こさない(山で死ぬな)」、二つ目は「山岳部で 4 年間、歯を食い縛って頑張れ。 2 年生で入部した者は 3 年間頑張る」、最後は「明大を卒業すること。学業成績は問わない。また、 4 年間以上かかってもいいから、卒業証書をもらいなさい」と。この約束は山岳部長と部員との“山男の約束”であった。山岳部長11年半、炉辺会長 4 年と長きにわたりお世話になったが、ご心配とご苦労を掛け続ける歳月となってしまった。
第13代山岳部長 小疇 尚 (1981年10月~2005年3月)
– 四半世紀にわたりご指導いただいた、氷河地形研究のプロ –
山岳部長に昭和生まれ、46歳という若い先生を迎えた。なおかつ専門は地理学で、高山や寒冷地を研究し、山にも積極的に登る小疇 尚(こあぜ たかし)先生である。
こうした極地や高山など幅広く研究する先生が、学内の文学部にいることを知った木村礎先生は、1972(昭和47)年、小疇先生を炉辺会の特別会員に推挙する。木村先生は文学部の助教授であった小疇先生と駿台史学会で顔馴染みであり、いずれ山岳部の部長後継者に、との想いから炉辺会に招聘したのだろう。
小疇先生と山岳部との初めての縁は、先生が 3 年生の春、鳳凰三山の薬師岳で気象観測と地形調査をしたとき、南御室小屋で山岳部員の秋山光男と出会い、お互い明大文学部史学地理学科と名乗り合ったときだった。また、同じ学科の村関利夫と親しくなり、クラスの友人や 2 人で北海道の日高山脈や大雪山に登ったという。小疇先生は、村関を通じて山岳部の活動実態を知る。
それから20年後の1980(同55)年冬、植村直己率いる「日本冬期エベレスト登山隊」の学術班に参加する。明大から小疇教授とOBの岡澤修一が参加した(「学術隊の記録」参照)。この学術班が帰国して 9 ヶ月後の1981(同 56)年10月、小疇先生は山岳部長に就任する。前任の木村先生は、思惑どおり山岳部長のバトンを小疇先生に託した。
部長に就いたころから、山岳部は部員減少という難題に直面する。就任前の 3 月に 4 名が卒業すると、1982年 3 名、1983年から1985年まではそれぞれ1 名、1986年 3 名、1987年 2 名のみの卒業と、部員の減少が続いた。このころの山岳部は入部する部員数が少なく、入部しても中途退部者が絶えず、監督やコーチ陣にとって頭の痛い問題となる。この部員減少の問題は、明大山岳部に限らず大学山岳部共通の悩みの種で、現在も危機的状況から抜け出せないままである。
就任して10年目の1991(平成 3 )年春、「明治大学チョモランマ峰登山隊」(平野眞市隊長)に学術班が同行する。小疇部長(当時55歳)が隊長となり、岡澤修一ほか 2 名が加わる 4 名で、未知のカンシュン氷河の地形などを調査した(「学術隊の記録」参照)。
ところが、この学術調査から帰国した年の冬、12年ぶりの遭難が起きてしまう。1991年の冬山合宿で12月28日、染矢浄志が利尻山のヤムナイ沢に転落、行方不明になる。12月30日から捜索活動に入ったが、長期にわたる遺体捜索となり、小疇部長は第 1 次( 1 月)、第 4 次( 4 月~ 5 月)の 2 回現地に入り、捜索隊を励まし関係先への挨拶回りをしていただいた。また、東京で開かれた捜索委員会は37回を数え、小疇部長には半分以上ご出席していただいた。そして、遺体発見後も地元の町や警察へ御礼に同行していただくなど、遠く離れた利尻島まで何度も足を運んでいただいた(「岳友たちの墓銘碑」参照)。
そうしたなか、21世紀のMAC・炉辺会を担う小疇部長の教え子たちが羽ばたく。1995(同 7 )年、「明治大学山岳部インド・ヒマラヤ登山隊」がガングスタン(6162m)に遠征、全員登頂に成功するという快挙を成し遂げる(「海外遠征史」参照)。また、21世紀を目前にした2000(同12)年 3 月、山岳部創部80周年・本学創立120周年記念の「ドリーム・プロジェクト」が動き出す。このプロジェクトで活躍した主力メンバーは、小疇部長時代の教え子たちだった。そして、登山隊にドッキングする学術調査隊も派遣され、小疇部長の専門分野である氷河地形などの調査で数々の成果を挙げる(「学術隊の記録」参照)。このドリーム・プロジェクト成功の 2 年後、小疇先生は明大を定年退職する。
前述のとおり小疇先生の山岳部長時代は、部員の減少という大きな壁が立ちはだかる苦難の時代であった。21世紀に入った2001(同13)年度は 1 人も入部せず、部員数は 3 年生 2 人だけいう危機的状況に陥り、明大山岳部は “存亡の危機”に陥った。炉辺会の理事会はじめコーチ会は、「部員減少に歯止めをかけねば」と様々な角度から検討を重ねた。
そこで、大学入学前の高校生の意識を知ろうと、高校山岳部に部活動と部の現状に関するアンケート調査を行った。この高校山岳部へのアンケート調査結果を基に高野剛監督、コーチ陣は小疇部長と話し合い、大学側へ「スポーツ推薦入試制度」の適用申請に踏み切る。その結果、2003(同15)年度から 2 名の推薦枠(現在は 1 名枠)が決まる。間口が広がったことは、山岳部にとって大きな前進となった。
晩年、長年にわたって山岳地形や氷河などを研究された先生は「日本の山岳景観に関する研究」で平成30年度の「秩父宮記念山岳賞」を受賞する栄誉に輝いた。小疇尚部長先生には1981(昭和56)年から2005(平成17)年まで、 23年半という四半世紀に近い間、お世話になった。すなわち“昭和から平成へ”、そして“20世紀から21世紀へ”という大きな時代の移り変わりの中でご指導いただき、苦難の山岳部を支えていただいた。
第14代山岳部長 飯田 年穂 (2005年4月~2019年3月)
– 本場アルプスで登山を実践するクライマー教授 –
フランス文化に造詣が深く、海外山岳書をはじめフランス書籍の翻訳、また、自らも執筆する飯田年穂(いいだ としほ)先生が山岳部長に就く。飯田部長は1948(昭和 23)年東京生まれで、戦後生まれの先生が初めて山岳部長に就いた。飯田先生は1971(昭和46)年 6 月、国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業、 1977(同52)年に東京大学大学院博士課程(比較文化専攻)を終え、明治大学政治経済学部の専任講師となる。そして、助教授を経て1986(同61)年 4月、政治経済学部教授に就いた。
飯田先生は1991(平成 3 )年 3 月から 2 年間、明治大学から在外研究の使命を受けフランスに渡る。グルノーブル大学で研究する合間にモン・ブラン、ラ・メイジュ、エギーユ・デュ・ミディ南壁などを登攀する。帰国後も毎シーズン、アルプスを訪れては多くのルートに挑んだ。2003(平成15)年夏、ヴァルテル・ボナッティの翻訳に際し彼の足跡をたどろうと、グラン・カピュサン(3838m)東壁のスイス・ルートをシャモニのガイドと登攀するなど、まさに“クライマー教授”そのものだった。
こうして本場アルプスでクライミングを積んだ飯田先生は、2005(同17)年 4 月、小疇尚先生の後任として山岳部長に就任する。この当時、山岳部と炉辺会は一大イベントの「ドリーム・プロジェクト計画」が完結したときだった。この年、加藤慶信は北稜から無酸素でチョモランマに登頂。翌2006(同18)年には「明治大学チョー・オユー、シシャパンマ登山隊」が出発、加藤慶信と天野和明の 2 人は、ノーマル・ルートからチョー・オユー(8201 m)、続けて北壁からシシャパンマ(8013m)と、アルパイン・スタイルで 8000m峰の連続登頂に成功する(「海外登山史」参照)。このころヒマラヤへの挑戦は途切れることなく続いた。
こうした華々しい海外登山がある一方、足下の山岳部は部員の少数傾向が続き、それをサポートする若手コーチの負担は増すばかりであった。部長に就任して 2 年目、悲報がもたらされた。炉辺会のホープであった加藤慶信が 2008(同20)年10月、中国・チベット自治区にあるクーラ・カンリで雪崩に巻き込まれ亡くなってしまった(「岳友たちの墓銘碑」参照)。翌2009年 6 月 20日から、故人の故郷にある南アルプス芦安山岳館で、「天空の頂をめざして―加藤慶信追悼展」が開催された。この追悼展のオープニング・セレモニーに飯田部長が出席、山岳部を代表して故人の偉業を紹介した。
2010(同22)年度になると、これまでの「スポーツAO入学試験」と「公募制スポーツ特別入学試験」が一本化され、新たに「スポーツ特別入学試験」がスタートする。この制度により山岳部は毎年 2 名の枠が設けられた。
そうしたなか、2011(同23)年に本学創立130周年、翌年には山岳部創部 90周年を迎えることから、学生主体の「明治大学マッキンリー(現・デナリ)登山隊2011」派遣が決まる。学生部員の海外登山は1995(同 7 )年のガングスタン遠征以来16年振りで、飯田部長のご尽力によって本学創立130周年スポーツ記念事業となり、実現する運びとなった(「海外登山史」参照)。 2019(同31)年 3 月に山岳部長を退任した飯田年穂先生には、在任期間14年と長きにわたりお世話いただいた。退任挨拶の中で「在任中、命に関わる遭難事故が起きなかったことにホッとしている」と、胸の内を語った言葉に少し慰められた。
自らロッククライミングを実践する飯田年穂先生から薫陶を受けた多くの部員たちは、登山界並びに社会で今幅広く活躍している(本書『炉辺』第11号(2012~ 2021年)の項参照)。
第15代山岳部長 加藤 彰彦 (2019年4月~)
– 高校山岳部で鍛えた山男部長 –
高校(都立西高校)時代に山三昧の高校生活を送った加藤彰彦(かとう あきひこ)先生が、第 15代の山岳部長に就任する。加藤先生は早稲田大学、同大学院を卒業され、3 年ほど銀行に務めた後、本学政治経済学部の教授となり、人口、家族、社会構造の比較社会学的研究を専攻している。
加藤先生は中学 3 年のとき、植村直己の著書『青春を山に賭けて』や『極北に駆ける』などを読み、登山を始める切っ掛けになったという。また、山以外でも植村の影響を受け、大学時代にバックパッカーとして延べ 1 年間、アメリカやヨーロッパ、アジアなどを独り旅し、様々な体験を積んだ。出身大学は違うが、植村直己との深い縁を感じる。
加藤先生が部長に就任して驚いたのは、明大山岳部が植村が活躍していたころの登山スタイルを継承していることだった。すなわち、夏山は重荷を背負っての長期縦走、冬山は極地法による登山を続ける山岳部に感銘を受けた先生は、一見時代遅れに見えるかもしれないが、これこそ自然の猛威に対する知識と合理的な判断力、そして、強靭な精神を育む活動である、と述べている。
山岳部は依然として部員数の減少に悩んでいる。加藤先生は着任早々の挨拶の中で―「今後はこうした人材(MACが輩出してきたアルピニスト、あるいは広く山の文化を担う人材)の育成をより積極的に前面に打ち出すことで、体育会山岳部の存在意義を学内外に示せれば、と考えております。そのためには、スポーツ入試の学生に加えて、一般入試の学生たちを継続的にリクルートすることが課題になりますが、彼らに山岳部活動の意義を伝える際に私の経験が役立てば、と思っています」と抱負を語ってくれた。
加藤部長が就任した山岳部は、依然として部員少数の域を脱せないままである。慢性化する部員不足の課題に直面した部長は、現在の状況変化に適応できないMACに問題提起する。一つに現在の学生気質に対する認識が欠けていること。また、偏差値が上がった本学の変化に気付いていないことを挙げた。今や学生は、大学での授業への取り組みが必須となり、これまで以上に学業と部活動の両立への配慮が不可欠になっているという。
そのため山岳部が持続的に部員を確保していくには、部活動のあり方をもっと幅広く柔軟に捉え、さらに長期合宿、冬山登山、周年海外遠征を維持するには、試行錯誤と工夫が必要、と問い掛けている。
今や団塊世代の時代と違いバンカラ風の校風は消え、優等生が集まる都会的な大学に生まれ変わり、そのため昭和時代に構築された合宿形態の継続は難しくなっている。一般学生に山岳部をどうアピールすべきか、待ったなしの問題が大きく立ちはだかっている。時代が「平成」から「令和」に変わる年に就かれた加藤部長は、創部百周年後のMACのあり方、すなわち21世紀における新MACを創出するため、学生、監督、コーチと一丸となって取り組んでいる(本書『炉辺』第11号(2012~ 2021年)の項参照)。