特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

第6期(1971-1974年) 続発する遭難、低迷から部の再建へ

目次

活動方針に揺れる山岳部と連続遭難

1960年代半ばから大学紛争でキャンパス封鎖が頻繁になり、部室での合宿準備ができない状況となる。そのころ日本の登山界では社会人山岳会の台頭が著しく、大学山岳部は沈滞化を余儀なくされていた。こうした風潮を打破すべく、MACは66(昭和41)年度から「団体から個人へ」のスローガンの下、個々の力を伸ばす方針で臨んだ。

 この71年度は主将が岡澤修一から石島修一に代わる。この年は12名の新人部員が入り、部員数は24名を数え、部活動にも活気がみなぎった。石島は連帯感が必要と、以前の合宿中心主義に方向転換する。そこで上級生の登攀技術を磨くため、9月に第2次夏山合宿を穂高で実施する。ところが9月26日、北穂高岳・滝谷第4尾根を登攀中、石島が転落死亡する事故が起きる。この遭難は、これから始まる悲劇のプロローグとなってしまう(「岳友たちの墓碑銘」参照)。主将を失った山岳部は3年部員の河野照行が代行となり、残りの合宿へと向かった。72(昭和47)年は2月に後立山連峰で春山合宿を行い、3月にOBと上級生有志で登攀訓練のため鹿島槍ヶ岳に向かった。ところが、北壁を登攀中の2年部員がスリップして歩行不能となり、ヘリコプターで救出される事となってしまう。

 河野が新主将となる72年度を迎えると新人12名が入部、4年2名、3年8名、2年5名と合わせて27名という大所帯となる。すると部内から「個人山行こそ本来の山登り」という志向が再び台頭する。そこで打ち出された年度方針は「アルピニスト派・アドベンチャー派で山登りの追求」であった。「アルピニスト派」はロック・クライミングを重視、「アドベンチャー派」はオールラウンドな山登りを目指すグループに二分された。この方針に監督はじめコーチ陣から、山岳部という団体としては部の統制が乱れ、チームワークが弱体化する指摘され、5月の新人合宿を終了した時点で部の一本化を図った。新たな方針で6月合宿を終え、7月末から2班に分かれ夏山合宿に入った。A隊(リーダー梶川清)は不帰東面から後立山縦走、B隊(リーダー河野)は剱沢・二股定着から剱岳へと向かった。ところが8月2日、A隊のリーダー梶川が、不帰Ⅰ・Ⅱ峰間ルンゼで滑落死、もう1人が重傷を負う事故を起こしてしまった(「岳友たちの墓銘碑」参照)。

 こうしてわずか1年の間に3件の遭難事故が起き、2名が死亡、2名重傷、1名軽傷という前代未聞の連続遭難となる。創部50周年を迎えた山岳部は、存続が左右される最悪の事態に陥り、海外遠征どころではなくなってしまった。こうして65(昭和50)年代半ばから後半にかけての山岳部を振り返ると、部員数の増加という明るい反面、それは単に数の上だけで、チームの実力や個々の能力という面では未熟で、過信するような落し穴があったのだろう。それが連続遭難を招いてしまったのであろう。

再建への道のりと海外遠征の復活

1959(昭和34)年冬の雷鳥沢での遭難以来、12年間無事故を続けてきた山岳部にとって、この連続遭難は余りにも大きな痛恨事で、山岳部の屋台骨をへし折るような非常事態となった。梶川清の遭難直後、監督の村関利夫は大学に部の再建の見通しがつくまで活動を停止し、謹慎を申し入れる。そこで炉辺会は72年8月、中堅、若手OBで構成する「再建委員会」を設置、部活動の全てを白紙に戻したうえで、登山の第一歩からやり直すことにした。

この再建委員会は、「基礎体力の養成」と「登山基礎技術の修得」の2つを重点目標とし、この方針に沿って下部組織の実行委員会がカリキュラムを組み、学生を指導することになった。そして、必ずOBが随行するトレーニング山行に入った。しかし、OBが同行する基礎訓練が毎月続き、新人のみならず上級生からも離脱者が相次いでしまった。

過去5回(八ヶ岳、富士山、冬富士、冬山、春山)にわたるトレーニング山行を再建委員会が総括した結果、山岳部の活動自粛と謹慎を解除、新学期より正常な部活動に戻すことが決まる。これにより再建委員会は解散することになったが、このときの1年部員が4年生になるまでの間、山岳部の活動を監視することになり、新たに「強化委員会」(委員長兼監督・中島信一)を設けて学生部員の指導、監督に当たった。73年度は8名の新入部員が入った。主将に就いた坂本純一は決算合宿を春山に置き、部活動に向かった。ところが、積雪期を迎える前に1年部員は2名に減り、合宿後に1名が退部、結局新人は1人だけしか残らなかった。春山合宿は早月尾根から極地法で剱岳に登り、再建後の1年目を終える。

こうした部の再建を手伝う若手OBたちの姿を見てきた中島信一は、連続遭難による沈滞ムードを打破するには、海外遠征を計画する以外に方法がないと考えた。山岳部再建の目処がついたことから、若い実行委員会のメンバーと遠征計画に着手する。その結果、ダウラギリV峰(7618m)が候補に上がる。翌74(昭和49)年1月に開催された海外登山委員会で翌春のダウラギリV峰計画を承認、併せて本学創立100周年に向けての長期ビジョンも検討された。同年3月、植村直己を隊長に西村一夫、長谷川良典の偵察隊が出発、ダウラギリ北面からルートを探った。帰国した植村から「80(昭和55)年以降のエベレスト登山枠が空いています。申請したらどうですか」と報告があった。海外登山委員会の大塚博美と藤田佳宏は、本学100周年に世界最高峰に挑もうと藤田がプラン作りに入った。

この74年度(主将・竹田和夫)には、再び2ケタ10名の新入部員が入部した。年度末の春山合宿には残った1年生6名が参加するなど回復軌道に乗り、再建途上の山岳部をさらに前進させた。部再建も遠征準備も順調に進んでいたところ、突如11月、ネパール政府が民族の騒乱から北西ネパールの入域禁止令を発表、ダウラギリ北面の計画に登山中止命令が出てしまった。12月に中島信一が急遽、カトマンズへ飛び、ネパール政府と直接交渉した。しかし命令は覆らず、その代わりダウラギリ山群の西端にあるチューレン・ヒマール(7371m)の登山許可を得て帰国する。

連続遭難から山岳部の再建を図る道筋から海外遠征の芽生える。それは本学100周年の「エベレスト計画」へ通じる一筋の道となっていった。

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