戦場に散った山仲間たち
終戦から77年の歳月が流れ、悲惨な戦争体験を知る世代は鬼籍に入ってしまった。機関誌『炉辺』や会報『炉辺通信』に、多くの先輩たちが戦時下の山岳部について原稿を残している。1941(昭和16)年から終戦(1945年)までの5年間は、暗い谷間の時代となる。
41年を迎えた3月、松永豊をリーダーに部員13名は八方尾根明大山寮で1週間の春山合宿を実施した。新学期の5月、新入部員歓迎キャンプが日光の霧降牧場で開かれ、末光績部長はじめ上級生21名が同行、盛大な歓迎会となる。このキャンプは戦前最後の新入生歓迎山行となり、このとき入部した部員たちの多くが、2年後の43(同18)年に学徒動員されてしまう。
この年の夏山山行は7班が編成され、後立山連峰はじめ剱岳周辺や南アルプスへと向かった。このときのリーダー陣は松永、後藤大策、堀越貞治、中西扇次、島村達之助、寺島鉄夫、永山盛泰たちである。その後も秋山山行、個人山行と続けられたが、10月に繰り上げ卒業が決まり、上級生たちは翌春を待たず部室に別れを告げていった。そして12月8日の太平洋戦争開戦となり、時局は一層緊迫の度合いを深めていった。
42(同17)年に入ると春山合宿以降、山行の機会はめっきり少なくなっていく。毎年恒例の夏山山行は4班に減り、その中の永山リーダーの第3班5名は、烏帽子岳から双六岳を経て笠ヶ岳に向け縦走中の8月16日、空襲警報が響き夏山山行を中止し、下山するという一幕があった。その後も秋山山行を西穂高岳で実施。12月には冬山合宿を終えた。
43(同18)年は戦局の悪化に伴って北アルプスへの登山は激減、谷川岳周辺や丹沢など都心から近い山に登るのが精一杯となる。永山がリーダーとなって12名が参加した八方尾根明大山寮の春山合宿は、大勢で参加する最後の合宿となる。山岳部として登山できたのは43年初頭までで、その後はグループで身近な山に細々と山行を続けるのみとなる。6月になると山岳部はワンダーフォーゲル部と併合され、「行軍山岳部」という名称になり、学内は軍事教練など戦争一色となる。
そして、ついに大学生の徴兵猶予は停止され「学徒出陣」となる。10月8日、駿河台の軍事教練場(現在のアカデミーコモンの場所)において明治大学学徒出陣壮行会が行われた。こうした八方塞がりの中にあって、予科の助川善雄は、ヒマラヤへのステップとなる極地法登山に燃えていた。このタクティクスをマスターしようと、学内に残る後輩の大塚博美と加賀の2人を連れ、11月末から12月にかけ穂高の畳岩尾根に向かった。しかし、部員3人ではどうしようもなく、そこに食料不足も重なり敗退する。戦況の悪化とともに非常時体制は一層強まり、軍需工場への労働動員が頻繁になるなか、校内や教室、そして部室から学生の姿は消えていった。
44(同19)年に入ると、繰り上げ卒業で上級生はいなくなり、助川を中心に新人ばかりとなる。物資や食糧の確保が難しい中、リーダーを担う助川は最後の力を振り絞る。3月に大塚博美と広羽清を連れ白馬の杓子岳に挑んだ。しかし、食糧不足に悪天候も重なり退却。続いて5月、この失敗を取り戻すべく浅野藤一、平林重浩、塚本靖、柏木たちと穂高の畳岩尾根に向かった。ところが新人の経験不足は否めず、さらに雪崩にも遭遇、三たび撤退という惨憺たる結果で終わる。この穂高行が明大山岳部の戦前最後の山行となる。6月になると、残っていた上級生部員も次々に徴兵され、助川とわずかに残る部員たちで登山用具や山岳図書の疎開に当たった。そして10月、部室は軍隊が使用するところとなり、山岳部は休部状態に追い込まれてしまった。
この大戦で山岳部、炉辺会の戦没者は12名に上る。こうした閉塞状況の戦中時代にも、ぎりぎりまで山行を続ける部員がいたこと、そして、戦火に倒れた山岳部員はじめ炉辺会員がいたことを忘れてはならない。
戦没者名 | 在部年 | 戦死年月日および戦死地 |
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鋤柄 作治 | 昭和3〜8年 | 1944年 輸送船が潜水艦に攻撃され戦死 |
島村 達之助 | 昭和13〜17年 | 1944年2月1日 ニューギニアで戦死 |
鈴木 敏博 | 昭和15〜18年 | 1944年12月16日 戦闘機練習中に墜落死 |
工藤 嘉七 | 昭和8〜11年 | 1945年2月12日 戦死 |
正野 保次 | 昭和9〜14年 | 1945年2月26日 フィリピンで戦死 |
本庄 巌 | 昭和16〜18年 | 1945年4月6日 特攻隊で出撃、戦死 |
島田 治郎 | 昭和12〜18年 | 1945年5月3日 特攻隊で出撃、戦死 |
国貞 和夫 | 昭和12〜16年 | 1945年6月11日 戦死 |
安藤 定夫 | 昭和15〜16年 | 1945年6月15日 戦死 |
小島 孝夫 | 昭和12〜16年 | 年不明 12月7日 フィリピンで戦死 |
松永 豊 | 昭和12〜17年 | 年月日不明 戦死 |
麦島 源一郎 | 昭和15〜18年 | 年月日不明 戦死 |