関東大震災と設立苦・米澤の急逝
1922(大正11)年6月16日、馬場忠三郎と磯部照幸が立ち上げた「予科山岳会」に、米澤秀太郎や北畠(旧姓:新田)義郎らの「スキー倶楽部」が合わさり、「明治大学山岳会」が誕生する。このとき学友会の委員であった米澤は、「山岳部設立趣意書」を執筆し、山岳部は学友会体育部の補助部として産声を上げた。
記念すべき初山行が行われたのは同年8月、2班に分かれ北アルプスに向かった。第1班の8名は磯部がリーダー役となり、中房温泉から燕岳、常念岳を縦走して槍ヶ岳に登り、上高地へ下った。第2班の5名は馬場が引率し、剱岳から白馬岳まで縦走した。
そのころスイス留学を終え帰国した大谷美隆先生が、初代の山岳部長に着任する(「山岳部長人物史」参照)。冬になると馬場たちは、米澤たち旧スキー倶楽部の先輩に引率され妙高の関温泉で山スキーの練習に励んだ。関温泉の「朝日屋」は、慶大山岳部や旧制三高山岳会の常宿で、お互い切磋琢磨しながらスキー術の腕を磨いた(「ゆかりの山宿物語」参照)。
翌23(同12)年2月20日、学友会の全委員会において、山岳部は学友会体育部への正式加入が認められる。春を迎えると米澤秀太郎はじめ北畠義郎らが学び舎を去り、新たな部員たちを迎えると本格的な登山活動に入る。5月に八ヶ岳、6月に甲斐駒ヶ岳と続き、7月の二度目の夏山登山は一挙に6班に増え、北アルプスへと向かった。
そうした矢先の9月1日、未曾有の関東大震災が起きる。校舎はもちろん、部室も消失、テントやスキー、山岳書籍など失い、軌道に乗り始めた山岳部は大きな被害を受けた。それでも部員たちはバラックの部室から飛び出し、スキー練習や登山活動に打ち込んでいく。
初代部長の大谷は校舎の再建、復興に取り組まずざるを得なくなり、翌24(同13)年3月をもって山岳部長を退任。2代目の神宮徳壽先生が就く(『山岳部長人物史』参照)。日本山岳会の会員でもあった神宮先生は、部員たちに登山観や山岳論などを教え、また日本山岳会の会合に部員を同行させるなど、創部間もない山岳部を支えてくれた。
ところが3月15日、山岳部の創設者で指導的役割を果たした米澤秀太郎が病死する。山岳部の精神的支柱であっただけに、米澤先輩を失ったことは当時の部員たちに衝撃を与えた。故米澤先輩に報いるため、新井長平、馬場、遠藤久三郎の3名は4月、信州側から白馬岳の積雪期初登頂を成し遂げる(『国内活動記録』参照)。
夏を迎える7月、馬場は佐伯宗作を案内人に剱岳・八ヶ峰を完登、クレオパト・ニードルの登攀に成功する(『国内活動記録』参照)。この年の夏山登山は8班に増え、北アルプスに加え南アルプスへも向かった。このころ待望の部歌「山男」が作られる。この部歌を口伝えに覚えた部員たちは、スキーの常宿はじめ山深いテントや山小屋などで唄い、部員たちの絆を深め合った。
24年12月、山岳部創部3周年と故米澤秀太郎を偲び、記念すべき山岳部の機関誌『炉辺』第1号が創刊される。この「炉辺」の名付け親は、後に民俗学者で名を馳せる高橋文太郎で、翌25(同14)年12月には『炉辺』第2号、26年に第3号、27年に第4号と年報のように発行された。25年で際立つのは、積雪期の3月、馬場と新井、遠藤の3名がスキーで西穂高岳を槍ヶ岳に挑んだ記録。西穂高岳は頂上手前で強風となり引き返したが、続く槍ヶ岳は途中からスキーをアイゼンに履き替え、見事登頂を果たす。
26(同15)年に入ると、創部当時の部員たちが学窓を去る。卒業生たちは山岳部発展の一助になろうとOB会を立ち上げる。OB会設立は故米澤の構想により、彼の遺志を受け継いだ上田謙之助、塚本強、新田義郎、村上良智が発起人となりOB会を設立した。OB会の名称は山岳部の機関誌名に因み「炉辺会」と名付けられた。6月9日「炉辺会」の発会式が催され、初代会長に山岳部長を退任したばかりの神宮徳壽先生が推挙される。そうした同年6月、配属将校として明大に配属された摺沢真清少佐が、3代目の山岳部長に就任する(「山岳部長人物史」参照)。彼は軍人という威厳を見せず気軽に部員たちと接し、陸地測量部に案内するなど協力を惜しまなかった。
大正末期に設立された明治大学山岳部は、関東大震災で大きな被害を受け、また設立者の1人である米澤秀夫郎が急逝するなど多難を船出となった。
スキー、スケート部の生みの親
1923年2月「第1回全日本スキー選手権大会」が小樽市で開催され、スキーは雪山を登る道具から、スピードを競う競技や飛ぶ距離を競うジャンプ競技の用具となった。馬場忠三郎は競技スキーで後塵を拝していると一念発起し、25年、山岳部の中に「スキー競技班」を設け、スキー選手を養成するトレーニングに励んだ。第1期生は宮川恒夫、千葉毅、緒方七郎、塙清、菊地久治の5名で、競技スキー“チーム明治”の誕生となる。
やがてスキー競技大会が華々しく開催される時代となり、スキー競技班のメンバーは、強豪校と競うにはスキー専門のクラブとして独立するしかないと、当時の摺沢部長に相談した。その結果、28(昭和3)年5月11日、部員とOBを交えた臨時会を開き、スキー競技班の分離が認められ「明大スキー 部」の誕生となる。
また、スキー部の独立とともにスケートも山岳部から巣立っていく。草創期に活躍した塚本強、新田義美、誉田実や遠藤たちが、スキーの行き帰り、氷が張った湖や沼でスケートを嗜んだ。塚本は全国学生氷上競技の旗揚げに関わり、誉田は25年度にスケート部の前身「スケート倶楽部」を立ち上げた。この2人が現在ある「明大スケート部」誕生の立役者と言っても過言ではない。
時代が「昭和」になると、各大学山岳部は厳しい登山に鎬を削る。とりわ け卒業したばかりの馬場は27(同2)年度に友人と、当時、未踏ルートであった赤石岳から延びる硫黄尾根の初完登に成功する。さらに翌28年夏には北尾根から前穂高岳、奥穂高岳、北穂高岳を登攀、続いて槍ヶ岳から北鎌尾根を下るなど基礎的な登攀活動を続けた。この年の9月、摺沢部長が急に異動となり、神官先生再び山岳部長に返り咲く(「山岳部先人物語」参照)。
部員たちを励ます講演、講話の数々
この草創期に山岳部員たちを励ます講演、講話が3回開かれている。初めは大谷美隆先生が、初代部長に着任して間もない1922年10月、スイス留学時代のスイスの話を部員たちに語ってくれた。当時の部員たちは、さぞや興味津々だったことだろう。また先輩の北畠義郎は25年、スイス滞在中にグリンデルワルトでアイガーを見物した話や、本場でスキーに興じたことを披露してくれた。このとき北畠はスイスで購入したシェンクのピッケルを持ち帰り、山岳部に寄贈してくれた。
最後は当時のスーパー・アルピニストとも言うべき槇有恒氏の講演会である。この講演会をお膳立てしてくれたのは、初代山岳部長の大谷美隆先生であった。山岳部長を早期に辞めた大谷先生は、山岳部に何か恩返しをしようと胸に秘めていた。28年6月、新装なった明大講堂で槇氏の講演会が開かれ、アイガー東山稜での苦闘やマウント・アルバータ遠征の体験談、さらに登山に際しての注意点などを語ってくれた。こうした草創期の講演会は、駆け出しの山岳部員たちに、高みを目指す勇気と希望を与えたのは言うまでもない。
こうして明治大学山岳部は数々の試練を乗り越えながら、より厳しい山へと歩み出した。