– 二度にわたり山岳部を牽引してくれた岳人教授 –
配属将校・摺沢部長の異動命令は、陸軍から事前予告がなかったためか、大学側は急きょ、後任の山岳部長を決める必要性に迫られた。イレギュラーのタイミングであったため、経験者でもある前任の神宮徳壽先生に再度就任を要請したと思われる。山岳部長に2度就任したのは、神宮先生だけである。2度目の部長になった先生は38歳となり、最も脂の乗る年齢を迎えていた。
神宮教授が山岳部長に復職した2年後、1930年2月に早稲田大学山岳部(会員番号1150)と法政大学山岳部(会員番号1155)が、相次いで日本山岳会に入会した。当時の山岳部員から神宮部長に入会要請があったのか分からないが、1930(昭和5)年5月に、明大山岳部は日本山岳会に入会(会員番号1180)する。そのときの入会代表者は神宮先生となっている。早大と法大の入会を知った神宮部長は、遅れまいと自身が代表者となり、明大山岳部の入会を申請したのではないだろうか。
時代が昭和に入ると、本学の震災復興工事は大きく動き出す。1930年2月に待望の体育館が完成、体育館の地下に立派な山岳部の部室が割り当てられた。ようやく部活動の拠点が設けられ、部員の活動意欲も一層高まっていった。こうしたなか、山岳部は新たなステージに向かって動き出す。1928(昭和3)年度のキャプテン宮前金三郎をはじめ、翌1929年度のキャプテン小澤利一郎が部を牽引する。また、1930年3月に白馬岳から唐松岳まで積雪期初縦走を成し遂げた交野武一が活躍する時代となり、山岳部は世代交代の時期を迎えた。
最初の部長就任時と違い山岳部は発展を遂げ、部員たちの登山意欲も向上し、神宮部長が何かとサポートする場面は少なくなった。成長した山岳部の活躍を目のあたりにし、先生は頼もしく思ったに違いない。ところが、こういう上昇ムードのときに限って得てして落とし穴が待っていることを、歴史は冷淡にも教えることがある。
1931(昭和6)年7月22日、山岳部員ではなかったが、初めての死亡遭難が起きる。この年度の夏期山行は、10班による分散登山を実施した。そのうち第9班の藤井運平、坪井芳太郎、渡辺長三郎の3名に、案内人の牛田佐市(当時52歳)を加えたパーティは、南アルプスに向かった。増水した小渋川を徒渉中に牛田が転倒して流され、死亡してしまった。牛田は「南アルプスの主」と言われた名案内人で、多くの部員たちを世話した。炉辺会は初めての山岳部遭難に対処しなければならなかった。7月30日、山梨県駒城村の故牛田佐市の実家で告別式が執り行われ、大学を代表し神宮部長が弔問に参列している。
この遭難の翌1932(昭和7)年4月、神宮先生は山岳部長を辞する。ようやく肩の荷が下りたのか、夏休みにご家族3人で上高地の明大小屋を訪れ、親子水入らずの山登りを楽しんだ。それから7年後の1939(昭和14)年1月21日、心臓弁膜症で48歳の生涯を閉じる。天命なのか、ご自身の誕生日に永遠の眠りについてしまった。先生は亡くなる10日前まで、普段どおり明大予科でドイツ語をはじめ論理学や心理学の授業を行い、病に伏してわずか1週間後に旅立ってしまった。突然の訃報がキャンパス内に伝わり、山岳部の部室にも悲報がもたらされた。1月23日に行われた告別式には、多くの山岳部員はじめ炉辺会員が参列、数々の薫陶をいただいた神宮徳壽先生を偲んだ。
改めて神宮徳壽部長の足跡を振り返ると、第2、第4代合わせ5年半、山岳部長を務められ、さらに初代の炉辺会会長にも就いた。草創期における山岳部の基盤を作っていただいた功績は、山岳部の歴史に深く刻まれている。