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図書紹介 -『求道の越境者・河口慧海』- チベット潜入ルートを探る三十年の旅-(根深 誠著)& 根深さんトークイベント

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図書紹介 – 『求道の越境者・河口慧海』

 根深 誠会員が1992年以来取り組んできた、河口慧海のチベット潜入経路探索の最終章『求道の越境者・河口慧海』が中央公論新社から刊行された。



 河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。

 日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。その旅行記は英訳もされ、チベットの聖地伝説化に拍車をかけた。

『西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。

引用元:「河口 慧海」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2024年7月21日 (日) 14:52 JPT URL: https://ja.wikipedia.org

 ご存じの通り、河口慧海が仏教修行を目的にネパールから当時鎖国状態であったチベットに潜入したのは1900(明治33)年のことである。帰国後、慧海は『西蔵旅行記』を口述しているが、潜入ルートについては政治的理由から詳細が語られることはなかった。

 著者が、ヒマラヤに残されたこの謎を追ってネパール・ムスタン地方に初めて入域したのは1992年。93年にはネパール・トルボ(ドルポ)地方、チベット・パヤン地方を踏査し、94年に慧海の潜入ルートを推定した『遥かなるチベット』(山と溪谷社)を刊行する。

 同書はムスタン、トルボとも解禁直後のことでもあり、大きな評価を得たが、著者の心には慧海が越えた国境の峠について違和感が残る。

 その後、1996年カ・リンポチェ、2000年ムスタンのツァラン、02~04年トルボのツァルカ(橋の建設)と、峠の探求を続けるが、04年それまで存在しないとされていた慧海の日記が公開される。

 日記によって潜入ルートが解明されるかと思われたが、実際には塗りつぶされた内容と不可解な記述によって謎は深まるばかりだった。

 著者は日記の内容を現地で確認すべく、05年チベット、06年トルボ、16、19年チベット、トルボと踏査を続けるが、その間も費用の捻出、病気などの苦労はもちろん、マオイストによる内戦、王政廃止の混乱、ネパール大地震、チベット入域制限強化と、次々と個人の力を超える障害が立ちはだかる。

 そして、30年を超える苦難の旅の末に、著者がたどり着いたのは、執拗な実地踏査と現地住民の証言による結論だった。

464ページの労作で描かれたものは、河口慧海のチベット潜入ルートであるとともに、1973年以来、50年以上にわたってヒマラヤとその周辺地域を歩き、辺境に生きる人々を見つめ、夢を追い続けた旅の集大成である。

(2024年2月/中央公論新社刊/四六判/口絵4ページ・本文464㌻/税込み3300円)

根深 誠さんのトークイベント

 求道の越境者・河口慧海 チベット潜入ルートを探る三十年の旅」(中央公論新社・3300円)のトークイベントが6月1日、東京・神田神保町の東京堂書店で行われた。歩き、見る、確かめる-、をモットーにヒマラヤの奥地に歩を運んで30年。ライフワークとも言える慧海を辿る旅の集大成の出版となった。

 午後1時半からのトーク・イベントは、著者の撮影した写真、ビデオに沿って説明があり、質問への受け答えなど、著者を知る人、慧海に強い興味を待つ参加者約三十人と通い合う遣り取りで進められた。

 炉辺会からも吉澤会長ら4人が出席。山仲間の希有な行動、研究に聞き入った。

東京堂書店で講演する根深会員
サイン会の様子
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